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クラシックCD、特にロマン派以降の市場ってもう限界なんじゃないだろか。有名曲は、もう何十種類も録音されて発売されている。ベートーヴェンの交響曲なんて、今更、膨大な費用をかけて新たな録音をする必要があるのか。優秀な指揮者がいるとしても、既に消費者は多種多様な選択肢を持っているのだ。

と言うことで、最近、めっきり、スタジオ録音の新譜って少なくなった。出てくるのは、新旧様々なライブ音源が圧倒的に多い。そう言う状況が良いのか、悪いのかは判らないけれども、若手の指揮者にとっては決して喜ばしい事じゃないだろうな。世界に向けて自分を発信する手段を一つ失うのだから。

しかし、そんな状況でありながら、今の若手指揮者には有望な人が多い。ドゥダメル、ユロフスキなんてのはもう随分とメジャー路線に出てきているが、その外にも、ペトレンコだの、ネルソンスだの、ソヒエフだのといった30代前半までの有望株が着実にワールドクラスの指揮者に登り詰めつつある。

さて、そんな中、ターリヒ、アンチェル、クーベリック、ノイマン、コシュラー、ビエロフラーヴェクと名匠を輩出してきたチェコはどんななんだろうか…と言うのは、前から気になっていた。そんな時に出てきたのが、トマーシュ・ネトピル。既に、2006年のモーツァルト・イヤーにザルツブルク音楽祭で歌劇『ルーチョ・シッラ』を振っているほか、SupraphonからいくつかCDも出て来ている。1977年の生まれだから、まだ33歳くらい。チェコ指揮界有望株の筆頭である。

と思っていたら、もう一人、メキメキと名をあげてきた指揮者がいた。ヤクブ・フルシャ。まだ、29歳。最近、東京都交響楽団に役職を得たので、日本での知名度も上がってきそうだ。折角なので、都響の演奏会に一度足を運んでみないといけないな~。

って、それだけじゃないんである。なんと、今年のプラハの春音楽祭でオープニング・コンサートを振ってしまった。プラハの春音楽祭のオープニングと言えば、『わが祖国』。この音楽祭、いや、チェコにとって最も大切な曲である。クーベリックがチェコに復帰したのも、アンチェルがカナダに亡命する直前に振ったのも、このオープニング・コンサートでの『わが祖国』である。29歳にはとんだ重責である。ところが、この重責を確りこなしてしまうから、非凡ってやつなんだろう。演奏はライヴ録音が最近発売されたので、気軽に聴くことができる。

と言っても、録音されたのはスメタナ・ホールでのオープニング・コンサートではなく、続けて演奏されたルドルフィヌムでのもの。オーケストラは、チェコ・フィルではなくて、プラハ・フィル。ちなみに、チェコ・フィルのほとんどの録音はルドルフィヌムで演奏したものである。

それにしても、なんと、瑞々しく、歌心が溢れている演奏だろう。オーケストラも豊かによく鳴っている。迫力も十分だ。思い切って変なことをしているわけではなく、この音楽祭の伝統に敬意を持ちつつ、若い感性を存分に発揮した演奏と言えるんだろな。

ネトピルもいるし、チェコ指揮界の将来は明るい。てか、ビエロフラーヴェクまでの間の世代はどこ行っちゃったんだ?

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1年前のヴァイオリン教室の発表会は、コレルリのラ・フォリア変奏曲だった。つっても、難しいところをすっ飛ばした簡易版。この曲の存在はこの時はじめて知ったんだけれども、これが良い曲なんだなぁ。仄暗いメロディがゆったりと舞うように始まるんだけど、徐々に狂気を含んでくる。おいらたちの演奏した簡易版は、狂気は炸裂しなかったんだが、原曲は結構吹っ飛んでいる。まぁ、おいらの手にかかれば、簡易版でもある意味吹っ飛んでいるんだが…(滝汗)。他の人のお陰で、狂気にまではならなかった。

さて、ラ・フォリア…先から書いているまんま「狂気」とか「常軌を逸した」と言う意味である。イベリア半島に起源を持つ舞曲なんだが、このメロディにインスピレーションを得て、バロックの作曲家たちが様々なラ・フォリア変奏曲を書いた。その中で、最も有名なのが、コレルリ…かと思っていたけど、実はヴィヴァルディかも。

で、このヴィヴァルディのラ・フォリア(正確にはソナタ ニ短調 作品1-12 RV.63『ラ・フォリア』)最近はじめて聴いたんだが、これ、マジ、狂気。さすが、ヴィヴァルディ、バロック最強の暴走作曲家。イタリアの古楽演奏団体に暴走楽団が、多いからアグレッシブな録音が多くなっちゃって、そう言うイメージがつきやすいってのもあるんだが、アグレッシブな演奏でも十分耐えうる曲を書いているんだから、あながち間違ってもいないだろう。当時から激しい曲へのニーズもあっただろうし。むしろ、当時の人が優美な曲ばかり聴いていたと言う方が後世の人の作り上げた幻想なんじゃないだろか。

ちなみに、おいらが最初に買ったのは、イル・ジャルディーノ・アルモニコ。暴走確定、なんだが、おいらは、この楽団はじめて買ったのだ。古楽好きと言うには、遅ればせ…過ぎる。で、これが、噂通りの暴走演奏だった。最初は、コレルリ同様、ゆったりと始まる。そう、あの仄暗いメロディによって憂鬱な雰囲気が空間を支配する。やがて、狂気を含んでいき、徐々に快走を始める。早い、早い、早い…何と言う心地よさ。そうして、危うげでエキサイティングな曲へと変貌する。しかし、仄暗い雰囲気は失われることはない。その後、曲は落ち着くこともあるが、ラストに衝撃が待っている。いきなり弦楽器が打楽器と化す、と言っていいかもしれない。そして、一気呵成にすごい速さのパッセージで突っ走って曲は閉じる。しかし、最後まで、仄暗いメロディアスな雰囲気は失わない。すげぇ…快感だ。

他に、オノフリ盤とサヴァール盤も聴いてみたが、イル・ジャルディーノ・アルモニコ盤が一番アグレッシブ。サヴァール盤はまだそこまで聴き込んでいないけど、これも名盤。オノフリ盤は、ややおとなしい。元イル・ジャルディーノ・アルモニコのコンマスなんだけど…な。

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The Celtic Violと言うCDを買った。Celtic…おお!セルティック!サッカーチームだね?って、そうなんである。いや、サッカー関係ないんだが、意味は一緒。セルティックってケルト族って意味なんである。って、ことに数か月前に気付いて喜んでいた。気付くの遅いよね…。

つうわけで、The Celtic Viol、「ケルトのヴィオール音楽集」とでも訳しておこうか。ヴィオールの名手、ジョルディ・サヴァールとバロック・ハープの名手でサヴァールの盟友、アンドリュー・ローレンス・キングが組んだ1枚。サヴァールのサヴァールによるサヴァールのためのレーベル、ALIA VOXからのリリース。素敵な企画と高音質、あとやたらと凝ったジャケットが魅力的なレーベルだ。逆にそのせいで、値段がやたら高いのが難点。こだわりの逸品と言うやつだが、SACDプレイヤーを持っていないおいらにはオーバースペック。
 
さて、ケルト、と言うとちょっと前に、ポップなジャンルでも世界的にブームになっていたと思う。多少は、日本にも伝播していたのかな?このCDもその流れを汲んでい…ない。もちろん、近しい響きはあるんだが、もっと、原始的な響きを持つ。なんつっても、ヴィオールだ。そっと添えられるハープの伴奏も素朴な味わいを増してくれる。そんな中に、物悲しい調べやノスタルジックな響きが加わると、なんと美しいことか。ロマン派の雄弁なオーケストラ曲に慣れた耳には逆に新鮮に響く。シンプルなのに、素敵な音楽。オーケストラが豪奢な都会の音楽だとすれば、この音楽は素朴な田舎の音楽。この味わいは、ロマン派には失われたものだろうなぁ。雨の日の午後に読書をしながら聴きたい音楽だ。

それにしても、ALIA VOXはホントに面白い企画を次から次へと繰り出してくる。古楽好きには堪らないだろう。こういうことは大手のレーベルではできないんだろうなぁ。しかも、演奏が良い。サヴァールの演奏は古楽の楽しさを改めて感じさせてくれる。素晴らしいレーベルだ。

そうそう、このCeltic Viol、人気があったのか、第2弾も発売された。ジャケットのサヴァールの写真のポーズがほぼ一緒と言うのは、何なのか。なんであれ、近いうちにゲットしたい。

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ゲーベル&ムジカ・アンティクヮ・ケルンがアルヒーフに録音した「J.S.バッハ以前のドイツ・バロックの室内音楽」と言う楽しそうな3枚組のCDがタワーレコードの尽力で安く入手できるようになった。

この時代のドイツ・バロックで一番有名な曲と言えば、やっぱパッヘルベルのカノンだろう。もちろん、このCDにもカノンは収められている。パッヘルベルは一発屋と思われがちであるが、当時の音楽界では巨匠として知られていたらしい。なので、このCDにもパッヘルベルの他の曲が収められているが、まず聴いてしまうのは、やっぱりカノン。

カノンと言えば、バロックのアイドル的名曲だからにして、ありとあらゆるジャンルの音楽に引用されまくっているんだが、いずれにせよ、癒し系的な扱いをされている。そうした一般的なイメージでは、マリナー&アカデミー室内管弦楽団の演奏が、ぴったりだろう(参考:Youtube)。対して、ここに聴くゲーベル盤カノンは一筋縄にはいかない。軽く、駆け抜けていく。ヴァイオリンの響きも鋭い。切れ味よくサクサクサクサクサクと進んでいく。ロマン派的な響きで、豊かにゆったり奏でられるカノンとは一線を画す(参考:Youtube)。

オリジナル楽器とモダン楽器の違いが誰でも判る好例だが、しかし、モダン楽器に慣らされている耳にはゲーベルの演奏は「こんなカノン、カノンじゃねー!!」と拒否反応を示したくなることだろう。ところが、真実は、少なくてもマリナーの演奏のようなカノンはパッヘルベルは演奏していないはず、なのである。ゲーベルのようなカノンを演奏していたかどうかは判らないけれども、パッヘルベルの想定した楽器、奏法はゲーベルの方が、マリナーよりもずっと近いはずである。要するにゲーベルの演奏の方がパッヘルベルが演奏していた可能性としてはある、と言うことだ。アーノンクールも言っているように、作曲家の意図した楽器、奏法で演奏することが、その曲の本来の姿、本来の魅力のはず、と言うことを鑑みれば、ゲーベルの方が本来のカノンの魅力を引き出した演奏、と言うことになる。

じゃぁ、オリジナル楽器の演奏家は楽譜に忠実なのかと言うと、これが全く違うのだ。むしろ、楽譜に忠実なのはモダン楽器の演奏の方。バロックの作曲家の楽譜は、演奏者の判断に任せるところが大きい。だから、楽譜に忠実に演奏することが正解にはならない、って解釈だ(おいらの理解ではそういうこと)。

そもそも、今の記譜法が確立したのは、1600年前後、要するにバロックの始まる前後だと言われている。それまでは、ネウマ譜のような楽譜はあるんだけれども、今の楽譜みたいに細かいことは書きこまれていなかった。下手すれば、音の長さが書いていなかったり、音の高さもあまり明確な決まりはなかった。中世以前になると、基本的にメロディは伝承で歌詞しかない曲も随分とある。こういう時代の音楽では、演奏するものの裁量に頼る部分が大きい。

で、バロックはそこから抜け出したばかりの時期であることを考えれば、それほど、楽譜にがんじがらめの音楽ではなかったはずである。これが、古典派を経てロマン派に入ると、より複雑化した音楽様式が確立されていき、楽譜はより大きな力を持つようになる。こうなると一人の人間が作曲家と演奏家を兼任するのが難しくなり、それぞれが専門家となる。20世紀に入ると、作曲家と演奏家の分離はよりはっきりしたものになっていく。そうした時代においては、やはり、ある程度楽譜に忠実に演奏することが重要になってくる。こうしたロマン派以降の常識でバロックを演奏していては、バロック音楽本来の魅力を表現することはできない。

ってのが、オリジナル楽器奏者の考え方であり、魅力である、とおいらは勝手に解釈している。まぁ、おいらみたいな素人でも理解できるように単純化しているので、有識者に言わせれば、間違っているところも多々あるだろうけど。

さて、それでは、マリナーとゲーベルどっちが良いのか。そんなのお好み次第である。歴史的に正しいとか、間違っているとか、どーでもいいんである(今までの話は何だったのだ!)。心に響いたもの勝ち。ただ、ゲーベルを持ち上げるわけではないけれども、今まで聴いてきたカノンがマリナー的だからマリナーの方がいいと言う結論はまったく面白くない。貪欲に新しいものを求めていく好奇心があれば、音楽の幅は広がるし、クラシックと言うジャンルを楽しむには、それなりの好奇心がないといけない。何と言っても、ン百年の歴史があって、そこには地域、時代によって多種多様な音楽があるのだから、保守的にひとところに留まっていては、存分に楽しめないのだ。そして、それが故に楽しくもあるのだが…CDの増加は止まらない…。


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ベルリン古楽アカデミーのヴィヴァルディの二重協奏曲集を聴いている。バロックなので、後世の協奏曲ほどソロが主役になって活躍するわけではないが、普通の協奏曲に比べると二重協奏曲は華美なものだ。2つの楽器の掛け合い、それに合奏との融和によって、素敵な音楽空間が広がっていく。

このCDはそんな二重協奏曲でヴィヴァルディの魅力をとことん満喫できるものだと思う。まず、1曲目がいい。合奏協奏曲RV.156。1楽章の刻んでいくようなリズムに煽られるようにカッコいいメロディが盛り上がっていく様は一度聴いたら頭から離れないだろう。もう、とにかくカッコイイ。演奏は、早いわけではないんだけど、決して緩まない。鋭い響きがヴィヴァルディの音符に突っ込んでくる。十分に刺激的。古楽器楽団だし、貴族趣味的に流暢に流れてはいかない。情に溺れない。良いCDだ。

ところで、ベルリン古楽アカデミーって、ベルリンの楽団なんだろうけど、あんま、古楽の団体でベルリンって聴かないような気がするんだけど…盛んじゃないのかな?とにかく、ドイツだとケルンばっかり目が付くんだけれども…。

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ちょっと思い立って、飾ってみたいジャケットを10枚ほどピックアップしてみた。曲の内容は全く意識せずに、ポンポンと選んだんだけど、10枚とも古楽(仮にバロックまでとしておこう。古典派は過渡期)か現代音楽だった。これはどういうことなのか。古楽や現代音楽のジャケットがおいらの好みなのだ!と言ってしまえばそれまでだが、反ロマン派と言うか、ロマン派圏外の音楽は自由で新しいジャケットを作りやすい、と言うのもあるのかもしれない。翻せば、良く言われる古楽と現代音楽の結びつきに繋がることかもしれない。まぁ、おいらの好みごときでそんな深遠なことまで証明されるはずもないが…思い上り自重。ただ、現代音楽のジャケットはロマン派向けではないが、古楽のジャケットに転用しても違和感が少ないものが多いんじゃないだろか。

さて、そんなわけで、古楽と現代音楽を考える上で、非常に素晴らしい例となる作曲家、アルヴォ・ペルトの作品を聴いている。スンマ(Summa)や交響曲第3番を収めた一枚。ヤルヴィ一族の長男パーヴォが自身と作曲家の故郷の楽団であるエストニア国立交響楽団を振ったもの。交響曲第3番以外は弦楽合奏のための作品。

ペルトは、当時のソ連政府から目をつけられたことからも判るように、そもそも前衛的な作曲家として出発し、試行錯誤の末、古楽、特に古い教会音楽(中世・ルネサンス音楽)にインスピレーションを得て、現在のスタイルに落ち着いた人だ。交響曲第3番でも、前衛的な香りを残すが、現在のペルト独特のスタイルは既に十分、感じ取ることができる。しかし、あの透明感、静寂感溢れる響きは、その他の弦楽合奏で更に強烈になり、魅力的に聴衆の心をつかむ。音楽を流しているのに、静寂。ひたすら静寂。ペルトの音楽を止めてみると、突然、エアコンの音、PCの音、X-BOXの音が煩わしく聴こえはじめる。音楽が心を鎮め、沈める。そうして、精神的なところで聴衆は静寂を強く感じるのだ。

この感覚に似たものは、他の音楽でも感じることができる。そう、ルネサンスの教会音楽だ。感情の起伏を露わにせず、冷たい表情で教会に鳴り渡るあの無伴奏、あるいはオルガン伴奏の合唱を彷彿とさせるのだ。前に書いたように古い教会音楽の影響が顕著なのが良く判る。

そこにミニマリズムが入り込む。一瞬、ペルトの音楽と、テクノ・ミュージックの成立に多大な影響を与えたミニマル・ミュージックが、頭の中で繋がらないが、聴いていれば何となく判るはずだ。この心地よい退屈感(誰かが言っていた表現の引用)に満たされていく感覚にあの響きがあることが。

このペルトの響きの寂寥感、静寂感を讃えた美しさ…はまれば抜け出せなくなる。しかし、一般人には「眠くなんね?」で終わるんだろうな~。入門は、タブラ・ルサかな?合唱曲も聴いてみねば。


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久しぶりに神保町に行ってきた。なんか、とっても久しぶりだ。神保町と言うと、本の街=知性の街なんて言い方をされることがあるけど、裏を返してしまえば、オタクの街ってことでもあるのだ。クラヲタ的にも、なかなか魅力的な街なのだ。音楽書の類も良いんだが、マニアックなレコード屋さんも多い。フルトヴェングラーのサインが店頭に飾られていたり、CDでは見たことのないようなLPがとんでもない値段で売られていたりする。おいらの財布じゃ、逆に何もできずお金も減らなかったりする(笑)。

そんな神保町にいつの間にか、クラヲタ必見ポイントが一つ増えていた。ディスク・ユニオン神保町店になんと、クラシック・コーナー開設。…って実は、随分前に開設されたらしいんだけど、中古品には興味がないおいらは、まるで気が付かなかった。

狭いながらも(御茶ノ水店ほどではないにせよ)なかなか品揃えは豊富で、廃盤探しには期待できそうな予感。人が多く、商品の回転の速そうな御茶ノ水店よりは「残り物に福」がありそうだ。ちなみに、おいらは御茶ノ水店で目ぼしい廃盤CDを見つけたことがない。やっぱ、あれだけヲタが集結していると、それなりのものはあっつう間に消えてしまうんだろう。頻繁に通い詰めて、新入荷品をチェックしなくてはならない。こうなると店頭に並んでいるのは、普通にどこでも手に入るようなものがほとんどだ。しかも、廉価盤全盛の時代だけに、中古の方が新品より高い、なんて滑稽なことも頻繁に起こる。

さて、こんな風に新しい店舗を持ち上げたのは、目ぼしいものを見つけたからである。先日、このブログで記事にしたアーノンクールのモーツァルトの交響曲のうち廃盤になっている31番と33番のCDを見つけたのだ。あとは残念ながら見つからなかった。本来ならば、国内盤で出た中・後期交響曲集があればいいんだけど、そんな贅沢はなかなか言えない。ここは、まずもって、31番と33番だけでも、ぜひ聴いてみたかったので購入した。って、現役盤の38盤から41番の後期交響曲も買ってないのだが…廃盤って言うといきなり欲しくなったりするんだよね~。

購入したのは初期のTELDEC盤。お値段3,800円と書いてある国内盤。レーベル面にもMade in Japanと明記されているが、日本語解説はない。どういうことなんだろう?まぁ、要らないからいいけど。お値段は800円程度だった。少し気になったのは、PCに取り込めるかどうか、と言うところだったけれども、問題はなかった。

内容だけれども、期待通り、アーノンクールの音楽が溢れてくる。31番、副題『パリ』。モーツァルトの交響曲には他に『プラハ』、『リンツ』と、2つ地名の付いた交響曲があるが、何れも、そこで作曲したとか、その地のために作曲したとか、その程度の理由で、曲に強くプラハっぽさが出ているわけではない。ただ、『パリ』については、モーツァルトがフランス音楽界をリスペクトしていなかったからかもしらないが、モーツァルトらしい輝きがやや影を潜めているような気がする。駄作とまでは言えない、寧ろ、名作ではあるんだけれども、パリの聴衆へのウケ狙いを強調し過ぎた故の虚ろさを時々感じるような気がするのだ。まぁ、妙に好きな曲ではあるんだけどね…。

こういう曲は、ありきたりの演奏をされると、ホント、退屈になる。だから、アーノンクールみたいな個性の強い指揮者の演奏の方が面白いのだ。テンポは思ったほど(あくまでも、思ったほど、である)揺れないが、それにしても、色んな仕掛けをしてくる。もちろん、そこに不自然なあざとさはなくって、自然に刺激的なモーツァルトの音楽が紡ぎだされていく。ちなみに、『パリ』には第2版による第2楽章も付いている。研究熱心なアーノンクールらしいおまけだ。

33番は後期6大交響曲の前にあって、地味な存在だが、なかなか小粋で魅力的な曲だ。もし、「モーツァルトを聴きたいんだけれども、どの曲が良いか?」と尋ねられたら、ぜひ推薦したい曲の一つだ。有名曲ならではのマンネリ的な先入観もないし、モーツァルトの魅力を手短に味わえる。こちらもアーノンクールの演奏は素晴らしい。優雅にノリはしないが、鋭い切れ込みが耳に心地よい。こんな素敵なCDを廃盤にしておく、ワーナーって何なんだろう?


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先日、このブログで書いた、終戦間際のフルトヴェングラーの記録、続編ってわけじゃないんだけど、今日、1945年1月28日のブラームスの交響曲第2番(ウィーン・フィル)と1月23日のブラームスの交響曲第1番(ベルリン・フィル、4楽章のみ)がHMVから届いた。とりあえず、前者を聴いている。

このCDは2004年のフルトヴェングラー没後50年にあわせてリリースされたものだが、演奏自体は以前から何度か、CDやLPで復刻されているんじゃないだろうか。今回のレーベルはARCHIPEL DESERT ISLAND COLLECTIONと言う、ヒストリカル録音のレーベル。1,000円以下の廉価盤だが、音質は悪くはない。フルトヴェングラーの戦中のラスト・コンサートである旨、ジャケットに掲げられているが、記載の通り、1月28日のコンサートであるならば、ラストではない。次の日も演奏している(笑)。まぁ、それは細かいこと。だけど、翌月のスイスでの演奏ってのは、戦中にならないのだろうか?亡命した後だから、戦中ではない、と言う解釈なんだろうか。ちなみに、スイスでのコンサートでは、スイス・ロマンド管弦楽団とは放送用のライヴもあったみたいなんだけど、この録音はあるんだろうか。

録音の経緯等細かいところは、以前ブログに書いたので割愛しよう。で、演奏なんだが、これはもの凄い。1楽章から早めのテンポで前のめりに追い込んでいって、終楽章になってさらに凄い勢いでたたみかける。もちろん、勢いだけではない。休符の間も一瞬息ができなくなるほどの緊張感がある。多分に先入観が入りこんでいることへの批判を承知で言うならば、不安な時代の焦燥感とか、緊迫感が力となって音楽になっているのだろう。以前の記事でも書いたが、そういう感情移入は演奏家にもあるはずで、単なる先入観だと片付けるわけにはいかないと思う。何れにせよ、この演奏のもの凄い気迫には息を呑んでしまうこと請け合いだ。要注意、呼吸困難。カップリングは1943年収録のブルックナーの交響曲第6番(1楽章欠落)。こちらはあまり褒められた音質ではない。


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CDデータ化2,000枚を漸く超え、更に着々とコンプリート目指して任務遂行中。データ化を進める速さの割には残りのCDが減らないのは、謎である。謎と言うことにしておこう。新しいCDが追加されるので、既存のCDが進まない…なんてことは、きっとない。たぶん。大方。

ところで、話は変わるが、今、アーノンクール&コンツェントゥス・ムジクス・ウィーンに関する書籍を読んでいるんだけど、ある章で大真面目に「2回目のオペラとなるスケヴェニンゲンのツィルクス劇場でのプログラムは…」「アーノンクールはスケヴェニンゲンで、レジデンツ・オーケストラを振って…」と、エロマンガ島と並び、日本人に人気の外国の地名(?)が何度か出てくる。まぁ、あれですよ、そりゃ、色んな外国語があって、いちいち笑うのは失礼かもしれないけど、やっぱそんな地名が出てくるとは思っていない文章を読んでいて、突然出てくると何度か読み返してしまう。止むを得んですなぁ、こればっかしは。ネタでしか聞かない地名が実際に出てくるわけだから。

さて、アーノンクールと言えば、CDのデータ化がテルデックまでやってきたので、漸くPCから聴けるようになった(と言ってもまだ全部じゃないんだけど)。今聴いているのは、モーツァルトの交響曲第35番&36番を収めたCD。ロイヤル・コンセルトヘボウ管、流石に美しい響きだなぁ。アーノンクール節が炸裂しても、コンセルトヘボウ・サウンドは変わらず。ちょうど、先日のコンサートでも交響曲第35番の素晴らしい演奏を聴かせてくれたんだけれども、当然ながら、コンセルトヘボウはまた異なった味わいで良いのだ。つっても、アーノンクールのやりたいことは基本的に同じで、コンサートを思い出しながら聴くこともできる。

アーノンクールのモーツァルトと言えば、オペラやセレナーデをあといくつか持っているんだが、交響曲はこれだけ。先日コンサートを聴いた好印象でもう少し買おうかと思っている。で、初期交響曲集は入手の手筈がついているんだけど、後期交響曲をどうしようか思案中。コンセルトヘボウと行った一連の録音は、BOXで入手可能なんだが、なぜか、29番から34番までがすっぽり抜けている。もちろん、録音はあるんだが、現在廃盤中らしい。なんとも中途半端なBOXである。その上、35番と36番は持っているわけだから、それほど食指の動くBOXではない。どうすっかなぁ。

ちなみに、以前から「アーノンクールってモーツァルトの交響曲全集作らないのかなぁ?」と思っていたんだけど、実は、ほぼ完成していた。「ほぼ」と言うのは、解釈と言うか、見方によって、モーツァルトの交響曲全集と言うのは曲数が変わってくるので、交響曲全集と名乗っていてもものによってその内容が異なるため、「全集なのだ!」と本人が言い切らない限りは完成したとは言い切れないからである。アーノンクールの場合は、曲数的には十分に「全集なのだ!」と言い切っていいものなのだが、そう言う形では出ていないから…。

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HMVの最新ニュースは情報がまとまっていて便利なんだけど、こればかり見ていると興味深いものを見逃してしまうことがある。販売元からの営業とか関係ありそうだしなー。

で、こういう振りがあるっつうことは、見逃していたんである。ものの見事に。それが、スークの交響詩『人生の実り』と交響曲第1番を収めた1枚。演奏はビエロフラーヴェク指揮するBBC交響楽団。最初に、ビエロフラーヴェクがBBC響の指揮者になった時は、「は?なんの繋がり?」とその突拍子もない情報にうろたえたものだが(!)、いざ、このコンビの新譜がちょくちょく出てくると、意外に成功したコンビと言うことになりそうだ。個人的には、いつも新譜を首を長くして待っている。

つうこって、なぜ見過ごしてしまった…。HMVでは9月9日に発売したことになっているから、2か月以上遅れを取った。不覚…(笑)。気付いたのは、店舗だったんだけど、これまでも全く見た記憶がない。新譜コーナーは入念にチェックしているつもりだったが、この程度では甘いのか!

さて、CDの内容だけど、期待に違わぬ出来。収録された2曲は録音の多い曲ではないが、共にチェコの先輩指揮者ノイマンが録音を残している。交響曲は作曲者が20歳前半に作曲したもの、『人生の実り』は40前後に作曲したものである。若々しいパワーはじける交響曲、ある種悟りの境地に入りつつある『人生の実り』。作曲者の変化を見るにも、このカップリングは面白いものだ。ちなみに、ノイマン盤は『人生の実り』1曲でCD1枚。ちょっと割高感がある。

演奏は、ノイマン盤はチェコ・フィルだけあって、ぬくもりのある柔らかな響きを出していたのに対して、BBC響を振ったビエロフラーヴェク盤は、ややメタリック(チェコ・フィルと比べればだけど)。交響曲での弾けた力強さは、ビエロフラーヴェク盤の方が楽しめる。と言っても、スークはドヴォルザークの娘婿だけあって、メロディアスな作曲家(とくに初期は)だから、歌心を失わないで欲しい。が、この点を取についても、ノイマン盤もいいけど、ビエロフラーヴェク盤も十分、聴き惚れることができる演奏だ。3楽章から終楽章に掛けての、馴染みやすいメロディに乗って、一気に歌いあげていく様は、聴衆もとっても盛り上がれる。

で、お勧めなのかと言うと、これが微妙なのだ。HMVで3,500円、ほかの店舗でも安いところで3,000円と、やったら高い。もちろん、SACD。だけど、輸入盤。何なのだ…この値段は。

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