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『R40のクラシック』(飯尾洋一著/廣済堂新書/2013年)を読んでいる。読むのが遅いので、現在進行形だが、紹介してしまう。

サブタイトルに「作曲家はアラフォー時代をどう生き、どんな名曲を残したか」とあるように、有名作曲家30人の40歳前後にスポットを当てて、どんなふうに生きそこからどんな作品が生み出されたのかをわかりやすい文章で紹介してくれる。

飯尾さんの本は以前にも読んだことがあるんだけれども、はっきり言ってマニア向けではない。どちらかと言えば、「クラシックに興味があるんだけれども、どうやって入っていけばいいかわからない」と言う人が読むときっかけが掴めて、すんなりとクラシックの世界に入っていけるようにできている。そのきっかけが今回の、この本では「アラフォー」と言う親しみやすい現代語で集約されている。

「アラフォー」は著者の言うように、多くの作曲家にとって、成熟の時期だったり、大きな転換を迎えている時期である。これが「アラサー」だとまだ未熟で紹介するには気の引けるような作品しかない作曲家もいるだろうし、あまり年を取ってからの時期だと、変に小難しくなってしまって、マニア向けになってしまう。「アラフォー」は、あらゆる作曲家の同時期を切り取るにはちょうどいい時期なのだ。

読者の方に焦点を当てれば、「アラフォー」はクラシックに興味を持ち始める世代ではないだろうか。本当のところは別として、クラシックは、ちょっと大人な音楽と言うイメージが世に蔓延っている(と思う)。「クラシックなんてかったるくて聴いてらんないよ!」と言う若者が、「ちょっと大人の世界をのぞいてみようか」となるような、そんな感じ。その期待に応えられるような作品も多い。

こういった「アラフォー」の読者にとってみれば、「有名作曲家のアラフォー」と言うのは、ちょっと大人びていて、読んでみると親近感がわくような、そんなテーマだと思う。音楽の教室に飾ってあった、あの近寄り難い肖像画の人たちも、人間味溢れた生活を送っていたのだということが、よくわかる。天才もプライベートでは人間的な挫折をするし、努力家はコツコツと続けていたことが花開く。若かりし頃にだけスポットを当てていては出てこない人間臭さが滲み出てくる。

構成はそれぞれの作曲家ごとに、アラフォー時代の出来事と代表作、CDの紹介となっている。クラヲタであっても、30人も作曲家がいると興味のない人もいるわけで、何気に「ほー、そうなのか」と言う内容もあるし、「あ、これアラフォーか」と改めて気付かされることもある。深く掘り下げてこないが、一読の価値はあるだろう。おすすめのCDも最近のものが多く、著者の「今を聴いてほしい」と言う意図と自身の造詣の深さをうかがわせる。

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書籍の店頭販売が不振だそうだ。そりゃ、Amazon便利だもんね…。

そんなご時世でも、何となく、神保町って不思議な魅力のある街だ。古本屋が有名なんだろうけれども、渋いレコード屋があったり、流行に流されないような食事処があったり、落ち着いた喫茶店があったり。この街は、独特の時間が流れているように思う。ゴミゴミと人が行き交うこともない。時折、本屋さんを覗きながらこの街を散策するのが好きである。

さて、神保町の本屋さんで、大手と言えば、三省堂、書泉、東京堂の3店舗。三省堂は、安定的に種類が豊富、書泉はゴミゴミしていてあんまり行かない。東京堂は、少し前に改装して、とっても過ごしやすい本屋さんになった。以前は、劣化した三省堂のような感じだったが、今は、1階にオサレな喫茶店を併設して、そこで買った本をゆっくり読めるようになったし、お店のインテリアや配置方法もセンスがあっていい。こう言う本屋さんで、何気なく、本を探す楽しみって、Amazonにはないもんだよなぁ。欲しいものが決まっている時はAmazon、何となく、本をみたい時は東京堂と、使い分けたい。

その東京堂で先日、面白そうな一冊が目に付いたので、買って読んでみている。『こんなにちがうヨーロッパ気質』(片野 優、須貝 典子共著/草思社/2012年)と言う本で、サブタイトルに「32か国・国民性診断」とある。著者2名はウィーンに住むジャーナリスト・ライターさんのご夫婦。ヨーロッパ各国を熟知する2人がヨーロッパ32か国のお国柄を紹介してくれる。「地球の歩き方」などのガイドブックでは見えてこない、ヨーロッパの国々の姿を知ることが出来て、実に興味深い。

本著「はじめに」にあるように、日本では、よく「ヨーロッパでは」とか、「欧米では」とか言うわけなんだけれども、あのだだっ広いヨーロッパで統一された民族性があるわけもない。日本だって、関東と関西で大分違うように、ヨーロッパだって多種多様なお国柄があるのだ。それを簡潔に、時に、有名なエスニックジョークを交えながら紹介してくれる。もちろん、その国の人がみな一様に、そうであるというわけではないんだけれども、間違いなく民族性と言うものがあって、それを端的にとらえた文章を読むのは、楽しいものである。

例えば、本著に紹介されているエスニック・ジョークをひとつ紹介してみよう。

「「今まさに豪華客船が沈まんとしているとき、乗客を海に飛び込ませるためには何と言ったらよいか」
●アメリカ人に対して「今、海に飛び込めば、あなたはヒーローになれますよ」
●ロシア人に対して「あっちにウォッカの瓶が流れていきました。今追えば、まだ間に合いますよ」
●イタリア人に対して「今、美女が海に飛び込みましたよ」
●フランス人に対して「決して、海には飛び込まないでください」
●ドイツ人に対して「規則ですので、全員、海に飛び込んでください」
●日本人に対して「みなさん、もう全員飛び込みましたよ」」(P.19より抜粋)

他の国のことはともかくとして、日本人の部分は、日本人として苦笑いせざるを得ない。日本人は「普通はこうだよ」とか、「みんな持っているよ」とか、そう言う言葉にやけに弱いし、言っている方も、なんかとっても正しいことを言っているような錯覚に陥るのだ。CMや販売員の宣伝文句にもそう言うのが多い。

本著を読むと、こう言った独特の民族性がヨーロッパ各国に夫々あることがよく判る。自分の行ったことのある国から読むもよし、頭から読むもよし。ヨーロッパを知るには、面白い一冊だと思う。その国のオーケストラ、作曲家の音楽を聴きながら読むのも良いかな。

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もうすぐ夏。観光シーズンである。ヨーロッパに行く人も多い。しかし、だ。このシーズン、音楽好きにはあまり有り難い時期ではない。7月、8月はオーケストラ、オペラ・ハウス共にオフシーズンになるからだ。

とは言え、折角の観光シーズン、ヨーロッパに行ったからには音楽を聴きたい!であれば、音楽祭へ行こう!チケットが取り難い&高い、野外だったり音響に優れない会場だったりで、純粋に音楽を楽しむには欠点が多いが、浮かれた雰囲気を楽しむのも良いんじゃないだろか。そもそもシーズン中にヨーロッパで音楽を楽しむのも雰囲気目的込みだし。それに、音楽祭を行う場所は概して風光明媚な場所が多いので、観光しがてらコンサートに行けるのも良い。また、音楽目的ではなかなか行くことのなさそうな、スペインやスイスでも盛んに音楽祭が開かれているので、こういうところで音楽を聴くのは逆にオフシーズンの夏の方が適しているとも言える。

しかし、音楽祭ってどこでどんなことをやっているのか、調べるのが結構難しい。それでこそザルツブルク音楽祭だの、ルツェルン音楽祭だの、プロムスだのと言う有名どころならば簡単に調べられるが、夏のヨーロッパはいたるところで小さな音楽祭が開催されており、それらを調べるのはインターネットが普及した情報化社会の中でも難しいのだ。だから、『絶対行きたい!世界の音楽祭』(田中良幸著/ヤマハ・ミュージック・メディア/2010年)はなかなか便利な本だ。欧米128の音楽祭が紹介されており、それぞれのURLも紹介してくれている。ざっくり簡単な紹介文でもURLがあればホームページを見れば何とかなる。写真が多くって、音楽祭の雰囲気も伝わりやすい。

構成は、前半が「厳選!10大音楽祭」、後半が「国別音楽祭118選」。10大って好きだよね~。10大オーケストラとか、10大指揮者とか…と言うわけで、前半はにこやかに流して、見どころは後半。知らない音楽祭が満載。そう言うマイナーな音楽祭でも、有名どころがぞろぞろ出てくるのがヨーロッパの凄いところだ。1999年に、あのヒキコモリだったカルロス・クライバーが、フラフラと登場したのも、スペインのカナリア諸島音楽祭だった。まぁ、これはそれなりに大きな音楽祭みたいだけど。

ぱらぱらっと見たところ、興味を引いたのは有名な音楽祭も混ざるが、シュティリアルテ古楽フェスティバル、ラインガウ音楽祭、ドレスデン音楽祭、ユトレヒト古楽音楽祭、インスブルック古楽フェスティバルあたりかな。音楽祭って、小粋な古城や古い教会で行われることが多くって、そう言うところに合うのはやはり、古楽なんじゃないかな、と思うと、やはり古楽の音楽祭に目が行ってしまう。オーケストラやオペラはやはり、本拠地で鑑賞するのがベストだと思うから。

さぁ、『絶対行きたい!世界の音楽祭』を片手に妄想の音楽祭めぐりをしよう!


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岡田暁生著『「クラシック」はいつ終わったのか?』(人文書院、2010年)を読む。「レクチャー 第1次世界大戦を考える」と言う一連のシリーズの一冊。このシリーズ、京都大学人文科学研究所の共同研究班「第1次世界大戦の総合的研究に向けて」と言う研究会の成果物…ってことなんだが、少なくても、この『「クラシック」はいつ終わったのか』は別に難しい本ではない。20世紀初頭の作曲家たちの作品をいくぶんか知っている身には「なるほど!」と感心することばかりである。

まず、この本で想定されている仮説だが、前述の研究会のテーマ、それとサブタイトルの「音楽史における第1次世界大戦」からも判るように「クラシック」は第1次世界大戦をもって崩壊したということである。この仮説を裏付けるべく、「クラシック」音楽が崩壊していく様が、文化面、社会面を交え、まざまざと解明されていく。

で、この「クラシック」とは何かと言えば、≒ロマン派&国民楽派である。この本では18世紀後半の古典派も含むことにしているが、古典派はバロックからの過渡期であって、ここで言う純粋な「クラシック」ではないように見える。では、ここで言う「クラシック」の定義は何か。それは今日における「クラシック」のイメージの通りである。市民社会が成立し、その中で教養を求める階級に支えられてきた音楽である。バロック以前の音楽は王侯貴族の音楽であったり、教会の音楽であったりする。あるいは、より原始的な民族的な大衆音楽だったりするわけで、劇場で行儀よく聴くような音楽ではない。いわゆる、今日、巷間で思い描いているような「クラシック」ではない。だから、クラシック≒ロマン派としてしまう。まぁ、現在、クラシックと言って聴いているのはほとんどこの音楽だし。

このクラシック≒ロマン派の崩壊は、簡単に言ってしまえば、教養を求めてクラシック音楽を支えてきた階層(ブルジョワ層)の崩壊をもたらした第1次世界大戦に起因する。支持者を失った「クラシック」は、戦争の中で音楽の無力さを痛感したり、或いは反対に、ナショナリズムの高揚する社会の中で音楽に熱狂する聴衆や音楽家に踊らされるように減退していく。このあたりの様子は第3章「熱狂・無関心・沈潜」に書かれているのだが、ナショナリズムに熱狂していくサン=サーンス、ドビュッシーと、ナショナリズムに白けた視線を向けたブゾー二、ヒンデミット、ストラヴィンスキーとの対比に顕著に表わされている。

それで、結局は、後者がその後の主流となっていく(そうしてクラシックは崩壊していく)。そうした時代を象徴するものとしてアドルノのベートーヴェン批判を用いて、音楽がもたらす熱狂の危うさについて触れている。

「《第9》的なマス集団は、必ずや「排除される人々」を作り出す。これがアドルノの《第9》批判の要点である。「市民的ユートピアは、完全な喜びと言うイメージを考える場合、かならずやそこから排除されるもののイメージのことも、考えざるをえなくなる。これはこのユートピアにとって、特有の点となっている。ただ世界に不幸が存在するために、そしてその程度に応じて、ユートピアの喜びも生まれてくるのである。」第2次世界大戦が終わって間もない時期(1945~1947年)のメモで、アドルノは次のように書いた。「ヒトラーと『第9交響曲』。だから包囲し合うがいい、幾百万の人々よ。」フランス革命とともに解放された「市民社会を形成する」交響曲の力の行き着く先は、アドルノの考えによれば、アウシュヴィッツにほかならなかったわけである。皆で一緒に熱狂してはいけない―このアドルノの醒めた感覚は、彼がポスト第1次世界大戦世代であったことと、無関係ではないはずだ。その意味で第一次世界大戦はまた、人々に音楽が生み出す熱狂の危うさに気付かせた戦争であったと言えるだろう。」P.107~108)

ベートーヴェンの第9がアウシュヴィッツに結びつく。社会の中の音楽として捉えるとこれは、なんとも意外な結果が導かれるのである。

この本はこうした音楽と社会の意外な結びつきを提示をしてくれていて、「おお!そうなのか!」と頷きつつ、「クラシック」崩壊前後の西洋音楽史を楽しく読み進めることができるのが良い。そして、ふと考えるのである、今はどうなのかと。例えば、音楽の熱狂がもたらす危うさ…例えば、次のワルターの言葉は行き詰まりを感じつつある社会の中ではどのように響くだろうか。福音のように響くだろうか、それとも何か、別の危うさを感じることができるだろうか。

「私たちは芸術の力、私たちの芸術ならではの力を、社会的な目的のために用いよう」(P.71)


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あのNAXOSが本を出している。その名もNAXOS BOOKS。海外のレーベルだからにして、基本、英文の本なのだが、有り難いことに、このたび、DISCOVERと言うシリーズが和訳され、新書版で学研よりリリースされた。このシリーズは、西洋音楽史をざっくりと追いかけたもの。Ⅰはバロック以前の音楽(中世&ルネサンス)、Ⅱはバロック、Ⅲは古典派、Ⅳはロマン派、Ⅴは20世紀音楽となっている。大まかに分けた西洋音楽史の5つの区分ごとに1冊を割り当てたかたちだ。ⅠとⅡは4月に出ており、ⅢとⅣがつい先日出たところ。Ⅴはないっぽい。無念。

おいらは、先日読んだ、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書/1995年)に続けて、西洋音楽史をも少し掘り下げて知りたくて、本屋をうろついて見つけた。『西洋音楽史』に比べて、単純に5倍のボリュームになったと言うわけではないが(DISCOVERシリーズは紙が厚く、画が多くページ数も少ない)、一つの時代に1冊割り当てているだけあって、入門書ながらそこそこ内容は濃い。音楽史だけではなく、音楽史に大きな影響を与えた政治的、宗教的な歴史も的確に紹介されている(『西洋音楽史』でも、もちろん書かれているが、より詳細である)。

さて、今、読み終えたのは、Ⅰ(『西洋音楽史Ⅰ』(ルシアン・ジェンキンズ著/小林英美、田中健次監修/松山響子翻訳/学研パブリッシング/2010年)。前述の通り、中世・ルネサンスの音楽がその対象。著者は古楽専門誌を立ち上げたり、オックスフォード大学で教鞭をとる古楽の専門家である。『西洋音楽史』の岡田暁生氏は特に古楽の専門家と言うわけではないので、一歩踏み込むと『西洋音楽史Ⅰ』に分がある。ただ、逆に専門家ではないが故に『西洋音楽史』の方が判りやすい一面もある。

内容について言えば、『西洋音楽史』でも著者が冒頭で主観性を否定しなかったが、『西洋音楽史Ⅰ』もただ客観的に音楽史を追っているだけと言うものではない。中世・ルネサンスと言う時代は古すぎるが故に謎めいた部分が多いが、そこに著者なりの客観的であったり、主観的であったりする考察を提示することもある。なるほど、古楽の専門家ならではの見識だ、と納得させられ、興味深く読み進めることができるのだ。そして、謎だらけだから面白い古楽の楽しみを教えてくれる。どんな楽器でどんな場所で、どんなテンポで演奏されていたか判らない音楽について、ワクワクしながら想像を巡らすと、音楽の楽しみの他に、歴史のロマンも感じることができるのじゃないか、と。

また欲しいCDが増えてしまうじゃないか!と文句も言いたい気分だ(笑)。

ちなみに、NAXOS BOOKSだけあって、音源の紹介も忘れていない。専用のホームページにアクセスして、パスワードを入力すると音楽を聴くことができる。下手にCDが付いていると邪魔くさいだけなので、有り難い方法だ。

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「…ポピュラー音楽の多くもまた、見かけほど現代的ではないと私には思える。アドルノはポピュラー音楽を皮肉を込めて「常緑樹(エヴァーグリーン)」と呼んだが(常に新しく見えるが、常に同じものだと言う意味だろう)、実際それは今なお「ドミソ」といった伝統的な和音で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエスプレシーヴォで歌い、人々の感動を消費し尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ、「感動させる音楽」としてのロマン派の、20世紀における忠実な継承者である。」(P.229より引用)

自分の聴いている「クラシック」と呼ばれる音楽は何なのだろうか。安易に、「クラシック」が好きとか、嫌いとか言うけれども、「クラシック」とは実に茫漠として捉えようのない括りである。どこからどこまでが「クラシック」なのか、「クラシック」となるための要件はなんなのか。この音楽を聴けば聴くほど、それは判らなくなっていく。だから、実は、おいらは「クラシック」と言う呼び方は好きではない。便宜上使っているが、好んでいるわけではない。いったいそれは何なのだ、と疑問を持ちながら、音楽を聴き、このブログも書き続けているのだ。

そんな、おいらが最近興味を持って読んだ本が、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書/1995年)だ。冒頭の一文はこの本の、最終章から引用したもの。多くの「クラシック」を聴かない一般の人たちは「クラシック」と言う括りが明確にあって、壁を作ってその中に閉じ込めたがる。そして、十把一絡げに「高尚」にして「癒し」の音楽だとする。しかし、その壁を取っ払って、ポピュラー音楽も「クラシック」も同じ西洋音楽として捉えると、なるほど、ポピュラー音楽は「クラシック」中の「クラシック」であるロマン派の流れを汲んでいることに気付かされる。これはちょっとした発見だ。

一般的な当たり前を言えば、ロマン派から「クラシック」を受け継いでいるのは、シェーンベルク、ブーレーズと言った前衛的な作曲家、或いは、ケージたちによる実験音楽、そこから派生したミニマル・ミュージックだろう。しかし、これらの音楽はもはや、それを構成する仕組みが、まるで別物になってしまっている。伝統的な和音や音階を捨てリズムを捨て、新しい方向を模索して、大衆から離れて行った(ミニマルは近付いているかもしれないが)。しかし、ポピュラー音楽は、バロックからロマン派にかけて確立された音楽手法を頑なに守り、大衆に感動を訴えかけ続けている。そこに調性があって、何分の何拍子と言うのがあるのは当たり前で、奏者たちはそのことを疑うこともしない(と思う)。

逆に古い方に目を向けてみると、今度は、ルネサンス音楽と言う存在が暗闇から浮かび上がってくる。バロックの前の時代だ。この頃もまた、調性も何分の何拍子と言うリズムもなかった。そう言ったものが、きちんと出来てくるのは、ルネサンス末期からバロック前半だと言う。だから、ルネサンス音楽を聴けば、いわゆる「クラシック」の代表的存在であるロマン派とは全く違う響きを持っていることが、すぐに判るだろう。

この時代を「古楽」と呼ぶ。バロックは過渡期的であるが、それ以降からロマン派の音楽を「クラシック」、シェーンベルク、ブーレーズ、ケージ等が「現代音楽」である(本書ではそう位置付けている)。「クラシック」の時代は100年ほど前に終わったのだが、唯一、「クラシック」を引き摺っているのがポピュラー音楽ってわけだ。一般的に「クラシック」仲間だと思われがちなルネサンス(古楽)とロマン派よりも、別物と思われがちなポピュラー音楽とロマン派の方が近しい音楽なのだから常識がひっくり返る。

こうしたことは、西洋音楽史をひも解いてみないと見えてこない。よく「クラシックだって昔はポップスだったんだよ」と言う人がいるが、なかなかピンと来ない。本書は、西洋においてそれぞれの時代の音楽がどういう人にどういう風に聴かれ、変貌を遂げて行ったのか、歴史を語る上で一見タブーに思われがちな主観的に語ることを敢えて避けず、興味深い考察とともに歴史の事実を明瞭に述べている。なるほど、「クラシック」だってポップスだった時代もあればそうでない時代もある。また、同じ時代でも、ポップスのように聴かれた音楽とそうでない音楽があったこと、それは当たり前のことなんだけれども、改めて気付かされるのだ。

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『モーツァルトの手紙』(高橋英郎著/小学館/2007年)を読んだ。モーツァルトはたくさんの手紙を残してくれた。だから、奇跡は「誇張された伝説」と勘違いされずに現実として現代に伝えられ、天才の現実的な一面を見ることができる。幸いなことだ。

この本は、そのモーツァルトの手紙から彼の人生を追っていくというもの。延々とモーツァルトのスカトロジーな手紙が羅列されているわけではない。ご安心あれ。…あ、いや、スカトロジーな内容も存分に書かれているので、モーツァルトに変な幻想を抱いちゃっている人向けではない。歴史が作り上げた幻想である高貴で優雅なイケメン青年作曲家はそこにはいない(彼の音楽もそんなんじゃないけど)。もっとも、いささかモーツァルトは節度がなさすぎるとは言え、多少なりとも父母の手紙にもスカトロジー的な表現があるように、当時の南ドイツ地方では、スカトロジーに対する認識が今とはだいぶ違ったと言う。

スカトロはともかく、モーツァルトの手紙からは実に軽快でありながら、生々しい天才の声が聞こえてくる。時には他人の悪口を書き連ね、時には他人を手放しに称賛する。あまりにも素直で率直な文章。身内に宛てた手紙だから本音が出ているだけなのか、平素から表裏のない人間だったのか…。

何れにせよ、本音のモーツァルトは、死ぬまで青臭く、若気の至りが溢れかえっている作曲家だった。それが手紙からひしひしと伝わってきて、心を打つ。「おれは天才だ!だから、評価されていいはずだ!」―大人の世界では通用しない、純粋な傲慢。きっと、当時の「大人」達はモーツァルトの才能を羨みながら「でも、それじゃ、世間は渡れないんだぜ?」としたり顔で眉をひそめてみていたのだろう。

さて、本書は、モーツァルトの手紙と日本のモーツァルト研究では有名な著者による解説が交互に現れる形で時代を追って進められる。モーツァルトの音楽のように流れるような感情の移ろいを見せる手紙に著者の見識の高い解説が付いてモーツァルトがグッと身近に感じられる。が、中2病か、小2病のようなユーモア、いや、悪戯に溢れ、時には、お下劣なモーツァルトに真面目な著者の解説が異様なミスマッチぶりを見せることもしばしば。コンサートや録音で、天才とは言え、若造がビリヤードをやりながら、その台の上で、鼻歌交じりに作曲した音楽を老大家がクソ真面目な顔をして、演奏をしている、あのミスマッチさ、それに通じるものがある。こういっちゃなんだけどちょっと笑える。

厚い本だけど、モーツァルト好きなら一気呵成に読める本だと思う。

最後に、モーツァルトの媚び諂わない反骨精神の一文を紹介しておこう。いやぁ、貴族社会にあって、見事な啖呵の切りっぷりである。青臭い、でも、カッコいい。カッコよすぎる。これでこそ、モーツァルトだよね!!人間いつまでも青臭くいたいものだ。

「人間の品位はその人の心にあるのであって、ぼくは伯爵ではありませんが、多くの伯爵に優る名誉を身につけていると思います。そして、下僕だろうが伯爵だろうが、ぼくを罵れば、その人こそろくでなしです。」(1781年6月20日(25歳)父レオポルド宛の手紙)

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010(以下LFJ2010)、めでたく応募したチケット全部当選。余裕っす、余裕。今回はコルボ御大Aホールだけだったもんで。先行発売とか、一般発売でも取れたような気もするけど、電話繋がらなかったり、ネットがフリーズしたりと、面倒になりそうだったので、こうやって取れたのは僥倖。1公演だけメンデルスゾーンの室内楽も応募してみたんだけど、小さいホールもとい部屋ながら無事ゲットできた。行くのはメンデルスゾーン2公演とモーツァルト1公演。いつも設定されたテーマとは別に自分のテーマで楽しんじゃっているような気がするな。今年のテーマは勝手に「天才たち」としておこう。マルタンさんごめんなさい

さて、毎年、LFJは、プログラム発表チケット発売前後の23月と本番のGWが盛り上がるわけだが、ちょうどこの3月に興味深いタイトルの本が出たので、買って読んでみた。それがこれ『クラシックの音楽祭がなぜ100万人を集めたのか ラ・フォル・ジュルネの奇跡』(片桐卓也著/ぴあ/2010年)

プロデューサーのルネ・マルタンの出生からLFJの成功までを紹介している本である。ぴあの出している本だからにして、LFJに否定的な部分は絶無である。いかにルネ・マルタンが素晴らしく、LFJが素晴らしいか、言葉の限りを尽くして、賛美している。著者はルネ・マルタン信者のようであるが、まぁ、それだけルネ・マルタンは魅力的な人間なんだろうなぁ~、と言うのはひしひしと伝わってくる。そして、LFJの未来を信じて疑わない、LFJが日本のクラシックのあり方を変えると信じて疑わない、一途さも伝わってくる。

確かに、ルネ・マルタンの「私は誰も除け者にしたくないんだ。作曲家は決して一部のエリートのために作品を書いたのではない」、「クラシックの民主化と言うフィロソフィー」には、大いに共感するところがある。と言うか、エリートじゃないのにクラシックを聴いているおいらも常日頃から思っていることだ。

しかし、天邪鬼のおいらのこと、こういう一方的な文章を読むと、懐疑心を抱く。

そもそも(ほかの国の事情は知らないけれども)日本ではクラシックはたいそう高尚な音楽だと思われている。だから、普段のコンサートに客が集まらない。そこでLFJが敷居を低くして、誰でも参加しやすいようにした。で、成功した。しかし、逆に高尚だと思いこまれているからゆえにLFJにお客さんが集まったのだとも思う。高尚な音楽を聴いている満足感、おしゃれ感みたいのが一部にあるんだと思う。加えて、高尚でお勉強音楽だから親も子供を連れてくる。

ひねくれた視点かもしれないけど、そう言うのってないとは言い切れないと思うのだ。そして、それって、クラシックの民主化なんだろうか。ちょっとどうなのかな、って思う。そう言う意識がなくなるのが一番いいのだ。

更に、本著では、LFJをきっかけにクラシックコンサートに出掛ける人が増え、クラシックが民主化していくことを期待しているが、それもちょっとどうなのかな?と思う。経済的、時間的余裕が許さなければコンサートなんてそうしょっちゅう行けない。非日常だ。対して、電車の中、遅く帰った自宅で気軽に聴けるCD(録音メディア)は日常である。その日常が広がらなくては、クラシックの広がりには限界があると思う。さて、LFJ効果でCDはどれほど売れているのだろうか、売れていくのだろうか。おいらは一部を除けばLFJフィーバーはCD市場は蚊帳の外にいるように見える。LFJ+αのコンサートでしかクラシックを楽しまないのであれば、物珍しさがなくなれば、忘れられるだけ。

色々書けばきりがないが、そんなことをつらつらと考えさせられる突っ込みどころ満載の本である。偏っているけど、ゆえにアンチテーゼが立て易く、色々と考えさせられるのだ。実は、音楽がどうこうと言うより、LFJの成功に関するビジネス書っぽい内容なんだけどね。

とは言え、LFJに参加している人は、自分で感じ取った実感と比較して見ると面白いと思う。

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モーツァルトの交響曲第35番『ハフナー』を聴いている。

改めて思う。モーツァルトって凄い。そのことは、何度も何度もこのブログで言ってきているような気がするけど、じゃぁ、どう凄いのかと言えば、万の言葉を用いても、おいらの表現能力では伝えきれない。ただ…凄いのだ。ただ聴いてみてくれとしか言えないのだ。

モーツァルトは時代を超えて偉大な音楽家である。たぶん、ジャンルも超えて偉大だと思う。古典派の時代に生まれたからその様式を被っているけど、その貴族文化ゆえの優雅な様式を楽しむ、「ただそれだけ」ならいくらも代替できる作曲家がいるだろう。それでこそ、史実はともかくとしてライバルとされていたサリエリでもいいし、当時、絶大な人気を誇っていたグルックでもいい。ただ、もちろん、それではモーツァルトである必要はないのだ。それなのに、モーツァルトを古典派の作曲家とだけ捉えて、時代ゆえの社交的な部分を表面的に解釈し、高貴だ、優雅だともてはやすこの国の常識には、いつも苛立たずにはいられない。

まぁ、そんな小賢しいことを偉そうにのたもうているおいらだが、どんなに屁理屈をこねても、小生意気な文章にしかならないので、この辺でやめておこう。

さて、今日は…『モーツァルト 神に愛されしもの』(ミシェル・パルティ著、海老沢敏監修/創元社/1991年第1版発行)と言う本を読み終えたので、簡単に感想を書き留めておこうと思う。

この本を読もうと思ったのは、改めて、さらりとモーツァルトの生涯を再確認してみたかったから。先日、ウィーンとザルツブルクを旅して、モーツァルトの足跡を追ってみたのだが、より体系的に確りと頭の中でモーツァルトの生涯を整理しておいた方がいいな、と思って。そして、どういう状況の中から、その作品が生まれたのか、より詳しく知りたかったのである。

とは言え、そういう類の本は、もの凄くたくさんある。文庫、新書、外国の人が書いたもの、日本人が書いたもの、また、様々な視点から書かれたものもたくさんある。この本の数だけでもモーツァルトの残した業績の後世への衝撃の大きさがはかり知れようというものだ。

そんなたくさんの本の中から、この本を選んだ理由、「何となく」である(汗)。パッと見、客観的に淡々とモーツァルトの生涯を描いていて、画が多い、ってところだろうか。前者は、そもそも本を買うための理由に、合致しているため、後者は、最近、ウィーンとザルツブルクに行ってきたので、ちょっと懐かしく思わせてくれるからだ。「あ、この絵、あそこにあったなぁ」とか、自分の写真と見比べて「ザルツブルクかわっていないなぁ」とか、まぁ、そんな軽々しい意味である。

内容は期待どおり、淡々とモーツァルトの生涯の概略を伝記的にまとめあげている。細かいエピソードにいちいち大きく突っかからずに、進んでいく。伝説的な神懸かりエピソードでも、そうである。作者の主観は、行間から感じることはできないことはないが、強く主張してくることはあまりない。博物館の展示品の解説を読んでいるようですらある。

後半には資料編が付いているが、こちらはモーツァルトやモーツァルトの周囲の人の手紙、20世紀の演奏家によるモーツァルト評など、ほとんどが他からの抜粋で出来上がっている。

モーツァルト概論としては十分な書籍であろう。しかし、そんな概論的な書籍でも、色々なモーツァルトの一面が読み取れて興味深い。モーツァルトですら、聴衆に合わせて作曲し、そのために苦悩し、その中に自分の偉大な才能を打ち込むことに成功していること。また、本文中や資料編の手紙の引用などから自分の才能を自認しているからこその傲慢とも、奔放ともとれる言動、それが故に最後の悲劇を引き起こしたこと…。そして、本文を読み終えて強く感じたのは、モーツァルトの2面性である。

天才作曲家としてのモーツァルト、生活力のないダメ人間としてのモーツァルト…この2面性はよく言われていることだけれども、それよりも、ヴォルフガング(本人)とレオポルド(父)が、「さて、こいつをどうしたものか?」と天才モーツァルトの扱いを画策しているように見えるのである。まるでヴォルフガングのほかに、もう一人、ヴォルフガングがいるかのように…。結局、肉体を同じにしているダメ人間と天才は同じ末路を辿らざるを得なかったのだけれども…。レオポルドの方に天才モーツァルトが宿っていたらどうなっていたのだろう?とか、思わないではないが、それではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと言う音楽史上最大の奇跡ではないのだろう。

さて、そんなわけでまたモーツァルトについて考えるネタが増えた。そうして、またCDが増えていく…のだろか。財政難なのだけれども(汗)。

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン、先行抽選申込、完了。当たるかどうか、ワクワクドキドキ…。

毎年、問題を起こしまくって、聴衆の不興を買いまくっていたチケット販売システムだが、抽選制度導入で多少は良くなるんだろうか。ダフ屋的業者が買い占めていた…なんて、噂もあったけど、どうなんだろうか。

チケット送付料の高さは相変わらず。「クール宅急便で届くので、受け取ったら即刻冷凍庫で保管し、当日は保冷バッグで会場までお持ちください」と言うことだ。しょうがない。手数料みたいのも取られる。紙ペラの印刷物が何で有料なんだ!とか、言わない。一枚一枚、手書きでチケットを作っているので、こちらもしょうがない。

だから、LFJ以外では絶対ぴあは使わない!と言うような子供じみたことを言ってはいけない…使ってないけど。この件とは関係ないよ?ホ、ホントだよ。だってしょうがないんだから。

以上、一部、妄想が混じっているので、要注意。

さて、機嫌を直して、と。

『最新 世界の指揮者名鑑866』(音楽之友社、2010年発刊)と言う素敵な本を買った。1996年に出た『指揮者のすべて』(音楽の友社)の続編と考えていいんだろうか。すんげぇ、間が空いているけど、そういうことにしておこう。どの本も出た時は最新なんだけど、敢えて、「最新」と言い切っているあたり、若気の至り的な自信を感じる。素敵だ。

それはともかく…内容は淡々とした866人の指揮者名鑑なのだが、これは非常に役に立つ。この指揮者なにもの?ってのが、結構あると思うんだが、相当の割合でどういう人物か、この本は教えてくれる。Wikipediaより優秀だ。残念ながらGoogleほどではないが。

前回より良くなった点は、20世紀の大指揮者ベスト17が消えたこと。17と言う数字も実に微妙で、中途半端だし、選ばれたのが殆ど物故者と言う超後ろ向きな結果は、見ているだけで憂鬱になってきてしまう。「昔は良かった!」とぼやいている老人の姿でも見えてきそうだ。まぁ、実際、過去に偉大な指揮者が多かったの確かだけど。

前回より悪くなったのは、お勧めCD&DVDの強化。ジャケット写真とお勧めコメントつき。こんなん増やすくらいなら、指揮者の経歴紹介をもっと充実してもらった方が良かった。

グループ分け(紹介に1ページ割いている指揮者と半ページ割いている指揮者と4分の1ページ割いている指揮者と8分の1ページで済まされている指揮者がいる)も不可解。ま、これは主観なんだろうけどなぁ。だけどなぁ。まぁ、いいや。


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