モーツァルトの交響曲第35番『ハフナー』を聴いている。
改めて思う。モーツァルトって凄い。そのことは、何度も何度もこのブログで言ってきているような気がするけど、じゃぁ、どう凄いのかと言えば、万の言葉を用いても、おいらの表現能力では伝えきれない。ただ…凄いのだ。ただ聴いてみてくれとしか言えないのだ。
モーツァルトは時代を超えて偉大な音楽家である。たぶん、ジャンルも超えて偉大だと思う。古典派の時代に生まれたからその様式を被っているけど、その貴族文化ゆえの優雅な様式を楽しむ、「ただそれだけ」ならいくらも代替できる作曲家がいるだろう。それでこそ、史実はともかくとしてライバルとされていたサリエリでもいいし、当時、絶大な人気を誇っていたグルックでもいい。ただ、もちろん、それではモーツァルトである必要はないのだ。それなのに、モーツァルトを古典派の作曲家とだけ捉えて、時代ゆえの社交的な部分を表面的に解釈し、高貴だ、優雅だともてはやすこの国の常識には、いつも苛立たずにはいられない。
まぁ、そんな小賢しいことを偉そうにのたもうているおいらだが、どんなに屁理屈をこねても、小生意気な文章にしかならないので、この辺でやめておこう。
さて、今日は…『モーツァルト 神に愛されしもの』(ミシェル・パルティ著、海老沢敏監修/創元社/1991年第1版発行)と言う本を読み終えたので、簡単に感想を書き留めておこうと思う。
この本を読もうと思ったのは、改めて、さらりとモーツァルトの生涯を再確認してみたかったから。先日、ウィーンとザルツブルクを旅して、モーツァルトの足跡を追ってみたのだが、より体系的に確りと頭の中でモーツァルトの生涯を整理しておいた方がいいな、と思って。そして、どういう状況の中から、その作品が生まれたのか、より詳しく知りたかったのである。
とは言え、そういう類の本は、もの凄くたくさんある。文庫、新書、外国の人が書いたもの、日本人が書いたもの、また、様々な視点から書かれたものもたくさんある。この本の数だけでもモーツァルトの残した業績の後世への衝撃の大きさがはかり知れようというものだ。
そんなたくさんの本の中から、この本を選んだ理由、「何となく」である(汗)。パッと見、客観的に淡々とモーツァルトの生涯を描いていて、画が多い、ってところだろうか。前者は、そもそも本を買うための理由に、合致しているため、後者は、最近、ウィーンとザルツブルクに行ってきたので、ちょっと懐かしく思わせてくれるからだ。「あ、この絵、あそこにあったなぁ」とか、自分の写真と見比べて「ザルツブルクかわっていないなぁ」とか、まぁ、そんな軽々しい意味である。
内容は期待どおり、淡々とモーツァルトの生涯の概略を伝記的にまとめあげている。細かいエピソードにいちいち大きく突っかからずに、進んでいく。伝説的な神懸かりエピソードでも、そうである。作者の主観は、行間から感じることはできないことはないが、強く主張してくることはあまりない。博物館の展示品の解説を読んでいるようですらある。
後半には資料編が付いているが、こちらはモーツァルトやモーツァルトの周囲の人の手紙、20世紀の演奏家によるモーツァルト評など、ほとんどが他からの抜粋で出来上がっている。
モーツァルト概論としては十分な書籍であろう。しかし、そんな概論的な書籍でも、色々なモーツァルトの一面が読み取れて興味深い。モーツァルトですら、聴衆に合わせて作曲し、そのために苦悩し、その中に自分の偉大な才能を打ち込むことに成功していること。また、本文中や資料編の手紙の引用などから自分の才能を自認しているからこその傲慢とも、奔放ともとれる言動、それが故に最後の悲劇を引き起こしたこと…。そして、本文を読み終えて強く感じたのは、モーツァルトの2面性である。
天才作曲家としてのモーツァルト、生活力のないダメ人間としてのモーツァルト…この2面性はよく言われていることだけれども、それよりも、ヴォルフガング(本人)とレオポルド(父)が、「さて、こいつをどうしたものか?」と天才モーツァルトの扱いを画策しているように見えるのである。まるでヴォルフガングのほかに、もう一人、ヴォルフガングがいるかのように…。結局、肉体を同じにしているダメ人間と天才は同じ末路を辿らざるを得なかったのだけれども…。レオポルドの方に天才モーツァルトが宿っていたらどうなっていたのだろう?とか、思わないではないが、それではヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトと言う音楽史上最大の奇跡ではないのだろう。
さて、そんなわけでまたモーツァルトについて考えるネタが増えた。そうして、またCDが増えていく…のだろか。財政難なのだけれども(汗)。
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