ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2010(以下LFJ2010)、めでたく応募したチケット全部当選。余裕っす、余裕。今回はコルボ御大Aホールだけだったもんで。先行発売とか、一般発売でも取れたような気もするけど、電話繋がらなかったり、ネットがフリーズしたりと、面倒になりそうだったので、こうやって取れたのは僥倖。1公演だけメンデルスゾーンの室内楽も応募してみたんだけど、小さいホール…もとい“部屋”ながら無事ゲットできた。行くのはメンデルスゾーン2公演とモーツァルト1公演。いつも設定されたテーマとは別に自分のテーマで楽しんじゃっているような気がするな。今年のテーマは勝手に「天才たち」としておこう。マルタンさんごめんなさい…。
さて、毎年、LFJは、プログラム発表→チケット発売前後の2~3月と本番のGWが盛り上がるわけだが、ちょうどこの3月に興味深いタイトルの本が出たので、買って読んでみた。それがこれ→『クラシックの音楽祭がなぜ100万人を集めたのか ラ・フォル・ジュルネの奇跡』(片桐卓也著/ぴあ/2010年)
プロデューサーのルネ・マルタンの出生からLFJの成功までを紹介している本である。ぴあの出している本だからにして、LFJに否定的な部分は絶無である。いかにルネ・マルタンが素晴らしく、LFJが素晴らしいか、言葉の限りを尽くして、賛美している。著者はルネ・マルタン信者のようであるが、まぁ、それだけルネ・マルタンは魅力的な人間なんだろうなぁ~、と言うのはひしひしと伝わってくる。そして、LFJの未来を信じて疑わない、LFJが日本のクラシックのあり方を変えると信じて疑わない、一途さも伝わってくる。
確かに、ルネ・マルタンの「私は誰も除け者にしたくないんだ。作曲家は決して一部のエリートのために作品を書いたのではない」、「クラシックの民主化と言うフィロソフィー」には、大いに共感するところがある。と言うか、エリートじゃないのにクラシックを聴いているおいらも常日頃から思っていることだ。
しかし、天邪鬼のおいらのこと、こういう一方的な文章を読むと、懐疑心を抱く。
そもそも(ほかの国の事情は知らないけれども)日本ではクラシックはたいそう高尚な音楽だと思われている。だから、普段のコンサートに客が集まらない。そこでLFJが敷居を低くして、誰でも参加しやすいようにした。で、成功した。しかし、逆に高尚だと思いこまれているからゆえにLFJにお客さんが集まったのだとも思う。高尚な音楽を聴いている満足感、おしゃれ感みたいのが一部にあるんだと思う。加えて、高尚でお勉強音楽だから親も子供を連れてくる。
ひねくれた視点かもしれないけど、そう言うのってないとは言い切れないと思うのだ。そして、それって、クラシックの民主化なんだろうか。ちょっとどうなのかな、って思う。そう言う意識がなくなるのが一番いいのだ。
更に、本著では、LFJをきっかけにクラシックコンサートに出掛ける人が増え、クラシックが民主化していくことを期待しているが、それもちょっとどうなのかな?と思う。経済的、時間的余裕が許さなければコンサートなんてそうしょっちゅう行けない。非日常だ。対して、電車の中、遅く帰った自宅で気軽に聴けるCD(録音メディア)は日常である。その日常が広がらなくては、クラシックの広がりには限界があると思う。さて、LFJ効果でCDはどれほど売れているのだろうか、売れていくのだろうか。おいらは一部を除けばLFJフィーバーはCD市場は蚊帳の外にいるように見える。LFJ+αのコンサートでしかクラシックを楽しまないのであれば、物珍しさがなくなれば、忘れられるだけ。
色々書けばきりがないが、そんなことをつらつらと考えさせられる突っ込みどころ満載の本である。偏っているけど、ゆえにアンチテーゼが立て易く、色々と考えさせられるのだ。実は、音楽がどうこうと言うより、LFJの成功に関するビジネス書っぽい内容なんだけどね。
とは言え、LFJに参加している人は、自分で感じ取った実感と比較して見ると面白いと思う。
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