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少し前に話題になっていたベルリン古楽アカデミーの『四季』&『四大元素』を買う。今更だけど…。だって、『四季』ってね、もう何種類目なんだと。超ド級にありふれた曲なわけであって、クラヲタならずとも聴き飽きた感満載の曲だ。こういう曲は、購入するのためらうんだよね。演奏家からしてみると、ちょっとした勝負なわけだ。今更買ってくれる演奏にしなくちゃいけないわけだから。イ・ムジチがあって、ビオンディがあって、ケネディがある。その上で存在感を発揮しなくちゃいけない。

じゃぁ、ベルリン古楽アカデミーの『四季』をなぜ買うのか。そりゃ、ベルリン古楽アカデミーだから。なんかやってくれそうな雰囲気満載の楽団だもの。あと『四大元素』との組み合わせも面白い。と、最近思うようになった。

もちろん、そんな期待を裏切る楽団ではない。響きは鋭く尖がっている。いつもの通り。まぁ、長閑な『四季』はイ・ムジチに任せておくとしよう。叩きつけるような嵐のような演奏なんだが、ただ暴走するんじゃなくて、表情が豊かだから聴き飽きた曲なのに何度聴いても楽しめる。例えば、『四季』で多分最も人気のある「夏」の終楽章も冒頭妙に弱音で弾いて(でもなんか不穏)、あっつう間に強奏になる。そして、妙に突っかかったような、でも、容赦ないスピード感で突っ走る。他の曲も、静かなところでも何か嵐の前のような不気味な静けさを感じさせる。それでいて、冷静で感情的じゃないんだから、全く癒されない『四季』だ。味わい深い。

ルベルの『四大元素』は、これが2枚目。1枚目は、ゲーベル&ムジカ・アンティクァ・ケルン。だから、初めて聴く曲じゃないんだが、それでも冒頭の「カオス」を聴くと、ついつい、作曲家の時代を確認しちゃうんだよね。ホントこの響きはカオス。バロックにこの響きはないだろ…。王侯貴族がどんな顔して、聴いたんだろうか。

さて、このCD、実は、CDだけで終わらない。映像があるのだ。バレエとコラボレーションした映像なんだが、何と、ベルリン古楽アカデミーの団員がバレエに参加している。この映像は強烈。秋では、頭にりんご乗っけて演奏しはじめるし、夏では、バケツリレーが始まるし、春では団員が2人一組になって、赤い糸の両端をくわえているし、冬ではソリストがひっくり返る。まぁ、そんなによくは観ていないんだが、よくこんな状況で演奏できるな、って代物。彼らならラーメン食べながら演奏できるんじゃないか?

そのうちDVDも買ってみようか。

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岡山で大枚はたいて桃を買ってきた。3個で2,000円オーバー。地元の人に、「岡山の桃は上の方まで白くって、ほかの所の桃とちょっと違う。手でつるっと向けて柔らかいんですよ」とのこと。去年あたりから近所で売っている桃はなぜか堅いものが多くて、不満満載だったのでついつい買ってしまった。大阪移動中も大阪のおばちゃんにどつかれないように気をつけながら、守り続けて今日漸く、おいらの口に入った。…あー、こりゃ、美味い。甘くて濃厚、かつジューシーと言うありきたりなフルーツの魅力を最高の賛辞で表現したい。デパ地下でちょっと良いケーキを買ったつもりになれば割高感もない。

さて、この旅の最中、あるCDをずっと聴いていた。ロマネスカのビーバー、ヴァイオリン・ソナタ集である。ロマネスカ、聴いたことのない団体だが、アンドリュー・マンゼとナイジェル・ノース、それにチェンバロのジョン・トールによるアンサンブル…なんだ、トールははじめて聴いた演奏家だが、後の2人は有名人じゃんね。

で、この演奏も素晴らしいんだが、曲が面白い。つか、楽しすぎる。ロマネスカのメンツを見ても判るんだけど、後世、ロマン派のヴァイオリン+ピアノによるヴァイオリン・ソナタとはわけが違う。伴奏が多様。もちろん、合奏って感じでもない。作曲家による楽器の指定がない場合も多い。フリーダムなバロックらしい一面だ。つうわけで、実に賑々しくなる。ヴァイオリンとリュートが丁々発止とやりあったり、ぶつかり合うように調和することもある。

作曲家ビーバーについては、以前にも書いたが、バロック中期に活躍したチェコ出身の作曲家である。ヴァイオリンを中心にした音楽で有名になった作曲家としては、随分と古い人だと思う。つか、おいらは、ビーバー以前の作曲家でこれほどヴァイオリンのための曲を書いた人を知らない。というのも、ヴァイオリンと言う楽器が器楽演奏の主役になったのは、ビーバーの頃からだから…と自信なさげに、知ったかぶりをしてみる。おいらの手元にある音楽辞典では「ドイツにおけるヴァイオリン音楽の確立者」となっている。

そんなわけだから、ヴァイオリン奏法も実験的と言うか、奇異なものがところどころに見られて面白い。そのことが顕著に見られるのが、ヴァイオリン・ソナタ「鄙びた描写」と言う曲。もうね、どういうタイトルなんだろ?って思う(笑)。なんだよ、それって。ロマン派のヴァイオリン・ソナタ、いや、どんな曲にも出てきそうにない、個性溢れるタイトルだ。他にも、「技巧的で楽しい合奏」とか、「夜警の声を含む5声のセレナード」とか、「教会へ行く農民」と言ったタイトルも…。妙にぶっきらぼうだが聴いてみたくなるタイトルばかりじゃないだろか(笑)。

で、この『鄙びた描写』って何かって言うと、動物の鳴き声の描写なのだ。ナイチンゲール、カッコー、カエル、鶏、うずら、猫…。もうね、バロックにこんな愉快な曲が作曲されていたことにのけ反るばかり。カエルで出てくるギギッって音、はじめてバイオリンを触った人が出してしまうあの音なのだ。名手マンゼがギギッ…(笑)。猫はグリッサンドでミャーオ!とやる。この手法と言えばルロイ・アンダーソンの「猫のワルツ」が有名だけど、ビーバーのミャーオ!はより徹底されている。つか、ゆっくりやる。だもんだから、より猫っぽい。

そんな変な曲なんだけど、音楽として楽しいんだから嫌になってしまう(笑)。ヴァイオリンを習っている身としても、楽しいんだが、そうでなくってもこれはとても楽しめる音楽だろうなぁ。

古楽ってこんなのが潜んでいるからやめらんない…!

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ガラタサライと言うサッカーチームがある。少しでも欧州サッカーに興味のある人ならトルコ・リーグの強豪として認識しているだろうし、そうでなくても以前稲本潤一が所属していたので記憶にある人もいるだろう。あー、もちろん、トルコがヨーロッパであるか否かと言う議論は、気になるところだけれども、ここでは置いておこう。それとトルコ・リーグと言えば、最近、八百長疑惑で大揺れなわけだが、幸い、今のところ、ガラタサライは巻き込まれていないので、やはり置いとくとしよう。

さて、このガラタサライの創設100年を記念して、1曲の交響曲が作曲された。作曲者はカムラン・インスという1960年生まれのトルコ系アメリカ人。曲名は交響曲第5番『ガラタサライ』。この曲のCDが作曲家の指揮でNAXOSからCD化された。オーケストラはビルケント交響楽団。ナクソス得意の謎のオーケストラだ。調べてみると、1993年創設の若いオーケストラらしい。もちろん、トルコの楽団。そこそこ著名な指揮者も客演しているみたいで、フルネとのライヴ録音もあるらしい。興味深い。

曲の方だが、ナクソスの宣伝文句によればジョン・アダムスっぽくって、じわじわトルコ風味ってことだ。まぁ、そうなんだが、おいらはこの曲を一通り聴いて、思い出したのは、フィリップ・グラスのオペラ『アクナーティン』だった。どちらにしてもミニマルだけども、そこまでミニマル色が強くはない。影響はあるんだろな、ってレベル。まぁ、トルコ人とは言えアメリカの方なので影響はあって不思議ではない。構成は4楽章。つっても、もちろん伝統的なソナタ形式による4楽章ではない。編成はソプラノ、テノール、ボーイ・ソプラノを従えた巨大なもの。これがグワァン、グワァン炸裂する。

が、個人的に印象的だったのは、ボーイ・ソプラノの静かながらエキゾチックな歌。冒頭の「ガーラーターサーラーイ」と歌う幻想的な合唱から続く部分での歌唱では、一気に聴き手を異国の地へ連れて行ってくれる。その後は強烈な打撃や弦がゆったりと刻む独特のリズムに乗ってパワフルに盛り上がっていく。その中にも、純粋なヨーロッパ音楽にはないような、エキゾチックが醸し出す緊迫感や哀愁が漂う。こういうのはなんて言っていいのかな、カッコいいっちゃ、カッコいい。

で、さ。歌詞は、ガラタサライを賛美しているような感じなんだけど、良いのか、サッカー・チームへこんな曲。ありなのか?解説書には、ガラタサライのクラブ・フラッグの下でリハーサルする写真なんかもあってご機嫌なんだけど。チャンピオンズ・リーグで、もし万が一、優勝したら会場でこの曲やって欲しい。会場の空気一変(汗)。

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英CollinsレーベルのCDを久し振りに買う。マリナー&アカデミー室内管のヴォーン・ウィリアムズ(RVW)の交響曲第5番、同第6番。CollinsのCDって、ジャケットがパッとしないし、最初に買ったスヴェトラーノフがフィルハーモニア管を振った『惑星』が残念過ぎたので、印象が良くないのだ。大人しいスヴェトラーノフってこんなに面白くないのか…と逆に新鮮だったりはしたけど。まぁ、そんなわけで積極的にCollinsのCDを買うことはなかった。だから、今回の購入は久しぶりになる。

で、何で買ったか。安かったから。あと前から気にはなっていたからってのもある。でも、Collinsだから買わなかった。とんだ刷り込みである。しかし、この節、廉価盤仕様になって再リリースされたので買ってみたということ。1,000円以下で買えるんだから試しに買ってみるかって気分にもなるものだ。

さて、と。このCD、RVWの交響曲第5番、同第6番の組み合わせなんだが、マリナーは他にRVWの交響曲を録音していない。この2曲は、RVWの戦争交響曲と呼ぶことができるもの。第2次世界大戦中に作曲されており、5番は「祈り」、6番は「戦闘」を想起させる曲だ。マリナーがこの2曲をカップリングして、全集としてではなく単発で録音した意図は明確である。つか、いたって正当なカップリングの仕方のように見えるんだが、ほかにこのカップリングの録音ってそんなに多くない。

演奏は、マリナーらしく丁寧で無難にまとめられている。強烈で個性的な演奏を残さない代わりに、手堅く曲の魅力を確実に伝えてくれる、と言う意味では、マリナーは得難い名演奏家だ。このRVWの録音も、そう言う意味で無難。6番は、バルビローリのようにドロドロに熱く歌うわけでも、スラットキンのようにスマートに決めるわけでもない。中庸…と言ってしまえば、まるで凡演のようだが、この曲を最初に聴く人に勧めるならば、バルビローリやスラットキンよりもマリナーの方が適している。マリナーの魅力が出ているってことかな?

激しい6番に対して、5番は落ち着いた音楽なのだが、こういう曲でもマリナーは良い。マリナーがアカデミー室内管と共に評価を高めたのは、バロックだと思うんだが、マリナーのバロックは落ち着いていて、優しい音楽だった。今日のオリジナル楽器のエキサイティングなバロックとは正反対の路線。この路線でRVWの5番を聴くのもまた良いもんだ。柔らかい響きで淡々と曲の魅力を紡ぎだしていく。こんな音楽が狂気が渦巻く第2次世界大戦中に作曲されたことには感嘆せざるを得ない。

と言うわけで、案外満足なCollinsの廉価盤。Collinsを見直そう。相変わらずジャケットはパッとしないけど。

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サロネンのバッハ・トランスクリプションズを買う。安かったから、と言うあまりにもサロネンに申し訳のない理由で、だけど。

この録音、発売当時結構話題になったような気がする。話題になった、と言うか、CDショップで前面に出ていたって感じかな。結構売れていたようだけど、おいらは興味がわかなかった。つか、気にもかけなかった。モダン楽器のオーケストラでは演奏しにくいバロック音楽を強引にオーケストレーションしているような違和感。バッハは人気があるからやりたかったんです!みたいな商業的な香りがしていそうで、「どうせ面白いわけがない」と言う先入観があった。サロネンなのに(笑)。

で、今回、特売コーナーに並んでいるのを見てふと気になった。なんで、この古楽器全盛の時代にこんなことやっているんだ?サロネンだし、売れるCDを作るんだ!ってより、なんか、裏があるんじゃないか…。手にとって選曲を確認してみると、やはり、何か面倒なことを考えていそうなプログラミング。

ストコフスキーの編曲は有名なものだとしても、エルガーって…そんなことしていたのか。あとはウェーベルンとシェーンベルク。それからマーラー。ウェーベルンとシェーンベルクは如何にもこの手の編曲をやりそうな人だ。編曲時期は判らないが、20世紀初頭、ナショナリズムの色の濃かったロマン派が崩壊して、音楽の地域性が薄まっていく脱ロマン派の動きの中で、その先頭を走っていた2人が、国境意識の低かったバロック音楽を振り返るのは極めて自然なことだ。ネオ・クラシシズムの先祖返り的発想と似ている。エルガーは先進的な作曲家ではなく、頑ななロマン派のイメージが強かったが、その影響があったのかなかったのか…。マーラーは編曲好きで、ベートーヴェンの交響曲第9番を肥大化オーケストラに編曲しなおしちゃったりしているので、違和感なし(笑)。

サロネン自身、作曲家なので、20世紀の作曲家がバッハをどう捉えていたのか、とか、なんかその辺のことを検証しながら難しく考えながらCDを作ったんだと思う。

結果できあがったCDは、馬鹿っぽく見えながら、深いという奇妙なものになった。まず、ストコフスキー編曲のトッカータとフーガ。これ、発想が強暴。ストコフスキー自身の演奏は聴いたことがないんだが、オーマンディの演奏は実に華やかで、表面的で俗っぽかった。名曲集的な感じかな。対してサロネンは、名曲だからって容赦しない。俗っぽく華やかにはいかない。轟々と鳴らすんだが、なんか、不気味な雰囲気がある。名曲集に入れたくない演奏(笑)。

エルガーの編曲は、笑えるぐらい色もの。ウェーベルンとシェーンベルクの編曲は、もっとも、「20世紀のバッハ」らしいかもしれない。彼らの他の音楽みたいに聴き難くはないが、冷めた響きは妙な魅力。現代音楽とバッハの相性の良さを証明してくれる。シェーンベルクが妙に壮大だったのには意表を突かれるが…。

最後にマーラー編曲がプログラミングされているのだが、ストコフスキーはともかくエルガー、ウェーベルン、シェーンベルクを聴いた後だと、ホッとする。なんか、やっちゃいけないことをやっていそうで、「こんなん、バッハじゃねぇ!」とは叫びたくなるけど。

と、なんだかんだ楽しめる1枚。「クラシックでお勧めのCDありますか?」なんてザックリ極まりない質問についつい推奨したくなる企画だが、マニア向け。少なくても、多少はバッハを聴いていないと楽しめない。なのに、ここで言うバッハは、ヨハン・セバスチャンだけ。この辺の感覚は一般人。カール・フィリップ・エマニュエルも、ヨハン・クリスティアンもなかったことにしておく。まぁ、両者の曲を聴いている身としても、ヨハン・セバスチャン以外はオーケストレーションしてもちっとも楽しくはないだろな、とは思うけど。

 
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また日本で100枚も売れそうにないCDを買ってしまった。タイトルは『ピエール・アテニャンと7つの“ダンスリー”』と言うもの。演奏者は古楽器アンサンブル、アンサンブル・ドゥス・メモワール。

ルネサンス時代の器楽中心の舞曲集である。アテニャンと言う人物は、出版業者。なぜ、出版業者の名前が残ったのか。活版印刷が出て、そのお陰で楽譜が世に広まってくると、音楽の世界に占める出版業者の立場はとても強くなった。技術力が最もリスペクトされていたのかもしれない。その結果、作曲者や編曲者の名前ではなく、出版業者の名前が楽譜の表紙を飾ることとなった。まぁ、作曲者、編者と言っても、楽譜がなかった頃から伝わってきた曲を楽譜にしました、編曲しました、ってレベル。到底作曲家と言えるレベルのことをしていたわけではないから出版業者の方が曲を世に広めるにあたっての役割が大きかったのかもしれない。

アテニャンもそうした出版業者の一人。16世紀前半に生きた人である。1537年に国王フランソワ1世から王室付き楽譜印刷管理人と言う怪しげな称号を得て、150冊以上の曲集を出版した、この道の権威的存在である。曲の内容はたいてい、歌であったが、中には器楽のための作品が混じっていて、その一部を収めたのが、当盤である。毎度、この頃の器楽のCDを買うと「舞曲」と言う言葉を目にするが、今回もダンスリーと言うことで舞曲である。そもそも、この時代の器楽曲と言うのは殆どが舞曲だったそうだ。それ以外の器楽曲の本格的な登場は17世紀、つまりバロックの始まりを待たねばならない。

使われている楽器は、ターユ・ド・ヴィオロン、カント・ド・ヴィオロンなどのヴァイオリン類とルネサンス・オーボエ等の管楽類、それに打楽器やハープ、リュートが加わる。改めて浜松楽器博物館でも言ってこれば、良いんだろうけど、まぁ、今のおいらの知識では何とかヴィオロンとか言われてもいまいちピンとこない。

ピッチはヴァイオリン類がA=392Hzで管楽器類がA=520Hz。A=392Hzと言うのは、現代一般的に使われているピッチから1音分低くなる。ティーフカンマートーンと呼ばれ、フランスのバロックでよく使われているもの。アテニャンはフランスの人物なので、このピッチにしたのだろうか。管楽器類は、逆に2音分ほど高く設定されている。古楽器の演奏と言うのは、こういうところからちまちま検証していかなくてはならないので、何気に奥が深い。

そう言う理屈的なことを別にして、音楽はどんなものかと言えば、15~16世紀の頃のヨーロッパを描いた歴史ものの映画に出てきそうな、あの何とも呑気なような、憂鬱なような、くすんだ古き時代の香りが漂ってきそうな響きが満載。バロック以降の音楽のような雄弁で表情豊かなものではなく、無表情なノスタルジーが聴衆を一気に古のヨーロッパに連れて行ってくれる。目を瞑れば、古いヨーロッパの建物に囲まれた石畳の広場にぽつんと立っているような錯覚さえ覚えてしまう。そんな音楽に身を委ねている時間が、結構心地よい。極上の音楽時空旅行。だから、似たような内容なんだろうな…と思いつつ、売れそうにない、高いCDをまた買ってきてしまうのだ。演奏も、優しい響き。たまんね~!


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チョン・ミュンフン…じゃないや、チョン・ミョンフンとチェコ・フィルのブラームスの交響曲第4番がCD化された。これ、このコンビの来日公演に合わせて急いでリリースされたたCDなんだが、肝心の来日公演が大震災の影響で全部ではないがほぼキャンセルとなった。EXTONは目論見はずれちゃったわけなんだが、これ、記念盤で済ましちゃうにはあまりにも勿体ない代物だ。SACDとは言え、1曲で2,800円とはあまりにも割高ではあるけれども、それを補って余りある。

…って、これ、おいらが2月にプラハで聴いたコンサートのライブ録音なんだけどね。ミョンフンが素晴らしい指揮者であると言う認識はあったけれども、「チェコまで行って、アジア人かぁ。ビエロフラーヴェク聴きたい…」なんて思いながらも、日程的に他に目ぼしいコンサートがなかったので、消去法的に取ったチケットである。

それが蓋を開けてみたら、どうだ?やっぱ凄い指揮者は凄いんである。オーケストラを煽りに煽って、恐ろしく情熱的な音楽を作り上げていく。この手の演奏は、下手すれば、がなり立てるだけの中身は空っぽの虚ろな爆演になりかねないが、そこんところきちんと弁えて、理性も知性も失わないのはさすが。特に3楽章から4楽章にかけての強力な推進力には聴衆を有無を言わさず呑みこんでいく魅力がある。圧巻。ティンパニの強打も効果的。もうね、容姿はこういっちゃなんだが、背が低くて顔のでかい、貧相な指揮者なんだけど、演奏中と演奏後はどんな韓流スターよりカッコよく見えた(あ、そもそも韓流…まるで興味ですけどね)。

で、オーケストラが、もう、流石としか言いようのない音色を出してくれるんだな。1楽章始まった瞬間に「うわーっ、綺麗だー!」って感動しちゃう。繊細で堪らなく美しい。その後も柔らかくふくよかでたーっぷり鳴り響く。2楽章で聴く、弦も鳥肌もの。あ、気持ち悪いってことじゃないっすよ?上質なシルクのような響きっつーのかな、ありきたりな表現を使わせてもらえば。やっぱチェコ・フィルの弦の響きは、最高級。もちろん、木管人の響きも、金管の響きも…あの美しいチェコ・フィルの音色。最高なのだ。ミョンフンもそこんところ良く活かしていて、全曲通して熱狂的ながら実に美しいブラームスになっている。もちろん、ライブならではの緊張感もあって、最上の演奏になっている。もう、むちゃくちゃ酔える。

この演奏が震災の影響で日本で聴けなかったのは、あまりにも惜しい。自分がこの演奏会を生で体験したことは、すっごい体験だと思うし、今思い返しても頭に血が昇るくらいテンションあがるけど、日本で演奏されなかったことは、あんまりにも惜しくてならないのだ。行く予定はなかったけど、もっといろんな人に聴いて欲しい演奏だった。ミョンフンの情熱とチェコ・フィルの美しい響きがあわさるとこんなにも凄い音楽になるんだと多くの人知ってもらいたいという思い。

せめてCDが売れればいいんだけど…値段がなぁ。しかも、ミョンフン&チェコ・フィルってこれが初共演なんだけど、あんまインパクトないんだよね。「あれ?今までも何度も見たような気がするけど…」って感じで。世界中の名門オーケストラを振っている指揮者と、世界中の名指揮者を指揮台に迎えている名門オーケストラの組み合わせってそんなもんかもしれない。もっとも、プラハでは、「ミョンフンがチェコ・フィル振るよー」って宣伝があちこちにしてあったけど。

そんなわけで、超お勧め。個人的にはコンサートの後に行ったピザ屋が思い出されてならない…。あれ、でかかったなぁ。


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この冬にプラハに行った時、ご当地のCDショップで最も推されていたソフト、パヴェル・シュポルツルの『ジプシー・ウェイ』のDVDがめでたくわが国でも発売されたので早速購入。既に発売されていたCDは、2008年のプラハでのライブだが、今回のDVDはスメタナの生地、リトミシュルで収録されたもの。プログラムは似たようなもんだし、ジャケットも一緒なので、同じコンサートと勘違いしやすい。まぁ、勘違いしたところで大した問題はないんだけどね。

で、このコンサート、どんなもんかって言うと、弦の国チェコの期待の若手ヴァイオリニスト、シュポルツルがスロヴァキアのツィンバロン・バンド、ロマノ・スティーロと組んでジプシー音楽に影響を受けた作品の数々を演奏するってもの。いわゆるクラシック作品あり、映画音楽あり…と言うわけで、クロス・オーバー的。

シュポルツルは、バンダナにジーンズ姿で出てくるような人なので、クロス・オーバーだけで勝負している邪道ヴァイオリニストと勘違いされやすいが、王道の作品でもきちんと勝負できる正統派である。特に自国ものには定評がある。CDで聴いた時はそれほどと思わなかったんだけれども、DVDで観たアシュケナージ&チェコ・フィルを伴奏にしたドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲ではゆったりとした動きの中から実に柔らかく雄渾な音色を響かせていて素晴らしい演奏だった。

正統的な音楽もしっかりできて、クロス・オーバー的な音楽もできる。方向性としてはナイジェル・ケネディに近い。しかし、演奏は奇抜でもエキサイティングでもない。強烈な個性で押してくるタイプではなく正統的なタイプ。柔らかくて、弱気にならない程度に力強い響き、そして、演奏姿は動きに派手さもなく、前述の通りゆったりとしている。何となくチェコの大先輩ヴァイオリニスト、ヨゼフ・スークに共通するところがある。有力な後継者と言っても良いかもしれない。世界的にどこまで評価されるか判らないけれども、チェコには絶対に必要なスター候補だ。

で、さて、『ジプシー・ウェイ』。一見、これまで出し続けてきた、お国ものとは違う路線のように見えるが、スラヴ音楽にはジプシー音楽の影響が多少なりともあるので、その根底的な部分では共通するところがあるのだろう。実際、アレンジされて演奏される曲の中に、スメタナの音楽が混ざってきたりするので、結局、シュポルツルのこれまでのレパートリーから大きくはみ出していないように見える。ヴァイオリニストとしては王道の、ヴィヴァルディの『四季』の録音の方が余程、意外性が感じられた。

とは言え、一般的なクラシックのコンサートと言う雰囲気ではなく、冒頭に述べたとおり、クロスオーバー的な雰囲気のコンサートだ。観客も楽しそうにのっているが、ケネディみたいに派手には盛り上がらない。何せ、本人の動きが優雅なまでにゆったりとしているのだ。チゴイネルワイゼンを弾いていても、技巧的な曲をひしこいて弾いている風はない。それに合間合間に入るシュポルツルのスピーチが、渋く落ち着いちゃっているのだ。「楽しんでる?」とか、観客に問いかけるんだが、低くていい声なんだなぁ、これが。もう、すっごくいい雰囲気。落ち着いた意味で(笑)。ケネディと方向性は似ていると書いたけれども、ライヴの雰囲気は全然違う。年齢的に考えれば、ケネディとシュポルツル、逆の方がいいんじゃ?と思ってしまう。

シュポルツルらしい、柔らかく奇を衒わない素敵な演奏、映像的にもオサレでカッコいい…だけど、日本では売れる予感は全くと言っていいほど、しない(汗)。日本でやっているクロスオーバーよりカッコいいと思うし、コンセプトも確りとしているから説得力もあるんだけどな。


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4月馬鹿、エイプリルフールも自粛となったようだ。ニュースはこちら。地震発生以降、随分とデマが出回っていたけど、4月1日は自粛。マスコミだけは盛大に怪しげな報道を繰り返していて、先日は、「4月上旬にディズニーランド再開へ」なんて、冗談も楽しげに流していた。「ディズニーランドなにやってんだよ!電気使い過ぎなんだよ!」って批難の視線が集まった。ただでさえ、ピリピリしているので、効果抜群。オリエンタルランドが必死に否定しているのが可哀想。

まぁ、嘘じゃないんだが、
こんなどっきりも仕掛けてきたり、テレビも口では「大丈夫ですよ~、大丈夫ですよ~」と言いながら、不安をあおるような映像を流している。空の棚とか、買い占めている客のインタビューとか…。まさか、米が3月に取れると思っている人は少ないと思うんだが米がよく売れた。その他色々と売れまくってその結果、大量の食品廃棄物が出てくるんじゃないかと思う。実際、ゴミの日に賞味期限切れの菓子パンが大量に捨ててあったという話もあるし…。災害廃棄物だけで大変だっつうのにな。

しかし、これも悪いことばかりじゃないらしくって、
こんなニュースも。カップラーメンと現状レベルの東京の水道水と長い目で見たらどっちの方が危険なんだろう、とかあんま考えない。「だって!テレビ観ていたら大変なことになっているじゃない!」ってな。節電の意味も込めて、TVは消そう!不安も解消されると思う。

さてさて、自粛自粛の世の中の流れだったわけだけど、最近は「自粛ばっかじゃ駄目だよ!経済回さないと」って向きも増えてきた。とは言え、東北の人たちが苦しんでいる時に、浮かれたことはしたくない。そんな時に良く使われる魔法の言葉「コンナトキダカラコソ」。あっつう間に状況を逆転させてしまう不思議なおまじないだ。

そんなわけで、おいらも「コンナトキダカラコソ」普通の生活を…って、おい!おいらの出費のほとんどはCD、コンサート、海外旅行なのであんま日本経済に影響ないじゃんね…。友達と食事に行っても結構安上がりに済ませちゃうしな~。

まぁ、あれだ、細かいことは気にしないで、タワーレコードにGO!

販売延期とかで久し振りに行った割に目新しいものは見つけられず。そんな中で、「おっ!」と思ったのがサー・アンドリュー・デイヴィスのディーリアス。オーケストラはBBC交響楽団。収録曲は、下記の通り。

古い黒人奴隷の歌による変奏曲『アパラチア』
合唱と管弦楽のための『高い丘の歌』

『アパラチア』あたまに「古い黒人奴隷の歌による」なんてのが付いているのは、今回初めて気が付いた。まぁ、黒人霊歌のことだよね。ディーリアスは、若い頃にふらふらしていて…いや、一生ふらふらしていたんだが、若い頃にフロリダの農場でふらふらしていたらしくって、黒人霊歌を採集していた(たぶん、真面目に働いてはいない気がする。だって、ディーリアスだもんね)。で、その成果が、この『アパラチア』や『フロリダ』組曲ってわけだ。

も一つ、『高い丘の歌』はノルウェーの印象を描いた作品。ディーリアスはノルウェー、つうか、北欧全般にもふらふらしていたことがあって、グリーグと面識を得たりもしている。まぁ、こんな風にいい加減な奴だったので、形式美を気にする人たちからは疎んじられる傾向があるようだ。

そんなわけで、ディーリアスの作品は、弟子のフェンビーや悪友のビーチャムの校訂版が多い。今回のCDはビーチャムによる校訂版。ビーチャムと言えば音楽で巨大な財産を投じた放蕩野郎である。その代り、ロンドン・フィル、ロイヤル・フィルを創設。今日までその功績を残す偉大な存在だ(
ウィキペディアの画が面白い)。

久し振りにディーリアスのCDを買ったんだけど、やっぱ良いなぁ。『アパラチア』のイントロダクションのゆったりと遠くから響いてくるような遥かな響き(変な表現だな)、そして煌くようで大らかなオーケストラに乗ってディーリアス・ワールドが広がっていく。とろけますなぁ。よく水彩画のような音楽と言う向きがあるように、目の前に爽やかで清廉な一幅の絵が広がっていくような錯覚を覚えるのがディーリアスの特徴。この色彩感、淡く抽象的なものの確りと別世界に連れて行ってくれる風景描写が、ディーリアス好きにはたまらないのだ。一見するとイージーリスニングとか、サロンミュージックとか、そんな軽い見方をされることもあるけど、たぶん、そんな聴き方をしているとディーリアスの良さは全く判らずじまいになってしまうと思う。デイヴィスの悠揚たる指揮も聴きもの。

コンナトキダカラコソ!TVを消して、電気を消して、ディーリアスの音の絵画の世界に浸ってみるのもいいんじゃないかな?

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冷える冬の夜に暖房をコンコンと焚いたぬくい部屋で、パッヘルベルの音楽を聴く。至福。ECOなんて考えたくなくなる。えっと、とりあえず、カノンとジーク…じゃなくて、『晩課のための音楽』と言う宗教作品集。カノンもジークも収められていない。キングス・シンガーズが英国の古楽アンサンブル、シャリヴァリ・アグレアブルと共演した一枚。signum CLASSICSから昨年リリースされたもの。シンプルなジャケットがセンスの良さを感じさせる。キングス・シンガーズがこのレーベルから出しているCDのジャケットはなかなか良いようだ。

さて、CDの内容なんだが、キングス・シンガーズが紡ぎだす温かみのあるハーモニーが素敵だ。男性だけのヴォーカル・グループだからだろうか。透明感に優れている他の古楽系の合唱団とは少し違う路線と言っていいかもしれない。もちろん、教会での録音と言うこともあって、その響きの清らかさは文句なし。

曲は、カノンからはあまり想像出来ないものかもしれないが、知られていない曲だからと言って看過するには惜しい作品ばかりだ。ちろっとパーセルちっくな響きを感じたような気もしたが、基本的には素朴な音楽だ。同時代の音楽でもフランス・バロックの仰々しく華美な音楽とは一線を画す。リュリやクープランの作品を聴いた後に、この音楽を聴くと、ホッと心が温まる。優しい音楽だ。パッヘルベルはオルガン、鍵盤作品で評価が高いが、宗教曲も素晴らしいものが多いようだ。パッヘルベル入門に最適…かな?


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