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今回の燕岳→大天井岳→常念岳縦走は、去年の五竜岳以来1年ぶりの北アルプスだった。で、その前はと言うと、雲ノ平と水晶岳を縦走した2008年まで遡らないといけない。南アルプスにしたって、近年、殆ど行っていない。

そんな浦島太郎のような状況だから、今回、燕山荘に泊まって、客層の変化に驚いてしまった。なぜか去年の五竜岳ではあまり判らなかったんだけれども、ここ2,3年で若い人が激増していたのだ。中高年もまだまだ多いけれども、20代、30代は物珍しい目で見られる存在ではなくなっている。あちらこちらで若者が輪を作り、会話を弾ませ、山の素晴らしさを語っている。なんなのだ、この状況は。

どうもきっかけは山ガールらしい。山ガールが低山ハイクをしていると言う話は聞いていたんだけれども、いつの間にか、アルプスにまで足を延ばすようになっていたらしい。山ガールなんて一過性のものだと思っていたけれども、案外定着してしまった。で、百名山ブームの頃「登山=中高年のもの」だった固定観念が解かれて、若い人たちも山に向かうようになった。男性も、別に山ガールを追い求めているわけでもなく、「若い人が山に行ってもいいんだ」となって、一気に若返った。そして、若い人は、あまりツアーに乗らないらしく、ツアー登山もほとんど見かけない。

と、こんな感じだろうか。ここまで、現実に推測を加えて書いてみたけど、あながち外れじゃないと思うんだ。

じゃぁ、今後どうなっていくんだろうか。自分は、小さい頃から山に連れられて行っていて、そのころの記憶も少しあるんだけど、その頃は、ちょうど今のような年齢層の人が多かったと思う。で、どうだったか。兎に角、若い人は、無茶をする。それが長所でもあるんだけれども、短所でもある。北岳の岸壁に張り付いているクライマーの姿を今でも鮮明に覚えている。結構みんな激しいことをするようになるんじゃないか。重々気を付けてもらいたいものである。自分も気をつけなきゃ、だけど(汗)。

なんにせよ、若い人が山に向かい始めたのは喜ばしいこと。体力の必要な趣味なだけに、若い人が多いのは自然だと思うし。そう言えば「若い人が少ない」と頭を抱えていたとある山小屋の若旦那がいたけれども、今は喜んでいるんじゃないかな。

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先週の日曜日、槍ヶ岳が白く染まった。今年の初冠雪だと言う。この日は槍穂に限らず、立山連峰、後立山連峰、黒部源流域と言った北アルプスの主峰の峰々はうっすらと雪化粧をしていた。

その日、その様を燕山荘から眺めていた。

打って付けの行楽日和が予想された10月の3連休の初日、前泊していた穂高駅前のホテルからタクシーで中房温泉に移動、大勢の人に紛れて、合戦尾根を登る。北アルプス3大急登と言われると、さも大変そうなんだが、地図をよく読めば、北アルプスへのアプローチ・ルートとしては楽な方であることがわかる。3大は、“大変な”ではなく、“メジャーな”と言う意味なんだろう。6時頃中房温泉を出て、9時過ぎには着いていたから、休憩時間を除けば、3時間程度の登り。コースタイムは4時間とあるけれども、そんな快足ではない自分たちでもこんなもの。

心地の良い稜線にこれほどあっさりアプローチできるのは大変魅力的だ。残念ながら、この日は、雲が多く、燕岳の山頂も雲に覆われていて、展望は得られなかった。もっとも、数時間後には青空も覗いていたので、時間帯によっては、そこそこの展望はあったのかもしれない。

この日は、燕山荘泊。9時に到着して、泊まり。まだ受付もしてもらえない。山頂でのんびりするために9時頃山小屋に到着することは、よくあるんだけど受付してもらえなかったのははじめて。流石、大型山小屋。

食事は3~4回転。その度に、小屋の主人が、登山初心者向けのお話とアルペンホルンの演奏を披露する。「あまり知られていないかもしれませんが、アルプスの方では有名な曲です」と言って、紡ぎだされたメロディ…ブラームスの交響曲第1番第4楽章の冒頭のあのメロディ!ここで聴くとは。

消灯は21時。19時には横になったけれども、いつものことで良く寝付けない。夢現を彷徨っているうちに3時頃になる。外に出ると雲一つない快晴に、数多の星が瞬いている。カメラを担ぎ出す。ベンチにセットする。

ジャリ…ん?この感触なんだ?午後遅くにみぞれが降っていたのをすっかり忘れていた。そして、これは…雪。気温は多分氷点下。風もある。だけど、素晴らしい景色。寒さに耐えるか、暖かい室内を取るか。結局、1時間くらいは外で耐えた。

翌朝、大量の人と共に日の出見物。その後、朝食→出発。さほどアップダウンのない快適な縦走路を風景を楽しみながら歩く。前述のとおり、西に見える峰々は雪化粧をしている。この日の目的地は、常念小屋。途中、大天井岳を通り、お昼頃、常念小屋到着。大天井岳は、方々から見ていて、景色の良さそうな山ではないかと思っていたんだけど、思った通り。槍穂の展望が見事な山だった。

この日は常念小屋に泊まって、やっぱり3時頃外に出て、星空見物。槍穂に、常念岳に、星の光が降り注ぐ。しんと静まり返った、異空間。この時間が、とっても好きなんである。

やがて、夜が白んでくる。準備を整えて、いざ常念岳山頂へ。暗い岩場をルートを探しながら登っていく。5時半ころに山頂着。先客は一人。でも、後ろを振り返るとライトをつけた登山客が、列をなして山頂を目指してくる。

日の出を待っていると山頂直下の岩場に動く、白い生き物が…。オコジョ冬毛版。夏毛版は、尾瀬と水晶岳の山頂で見たことがあるけど、冬毛版は初。日の出よりそっちに目が行ってしまった。

いつしか山頂は大勢の人であふれていた。この山に登るのは、10年ぶり2度目だけど、前回は雲が多くて景色が楽しめなかったので、景色を見るのは初。この2日間見続けてきた槍穂を改めて眺める。しかし、これまで写真をだいぶ撮ったので、改めて撮影する気にならず。

日の出が終わると、カメラをしまってさっくり下山。常念小屋の前で朝食を済ませて、一ノ沢登山口に下山。その後タクシーで日帰り入浴&昼食を経由して、穂高駅へ。ここから松本経由で帰京。

今年初の日本アルプスだったけど、やっぱり景色は良いなぁ。また行きたい。もうそろそろ、再訪の山ばかりになってくるけど…。
  


  
  

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記録的な猛暑がはじまった今週の初めのこと。夕方、半袖Tシャツ1枚で街を歩いていると酒屋の前で作業をしていた老婆に声を掛けられた。「そんなかっこうで寒くない?」確かに、少し肌寒さを感じていたところだったので、「そうですね。ちょっと寒いです」と言葉を返した。

もちろん、ここは東京ではない。日本の北の果ての離島、礼文島の香深。離島と言うと、沖縄であったり、小笠原であったりと、南のイメージが強い。しかし、北海道の離島も魅力的なところが多いのだ。なかでも、花の浮島と呼ばれる礼文島は観光客に人気が高い。レブンアツモリソウやレブンソウ、レブンウスユキソウなどの固有種が多いことで知られるが、何といっても、海岸から咲き乱れる高山植物の群生は他では見られない風景だ。島全体の風景はニュージーランドに似ているとも言われている。

隣の利尻島は、島中心部に標高1,700mを超す利尻山を擁する山の島。遠くから見ると、端正な三角錐をしているため、利尻富士と呼ばれることもある。しかし、近付いてみると、その峨峨たる山容は、富士山とは似ても似つかない。北海道銘菓『白い恋人』のケースにプリントされている山が、この利尻山なんだけれでも、これをみて富士山を思い浮かべる人はまずいないだろう。登山道も、富士山とは比較にならないほど変化に富み面白い。山頂付近のお花畑も素晴らしい。

そんなわけで、この1週間ほど、利尻、礼文、そして、ついでに大雪山を少しだけ歩いてきた。

最初は、利尻島。羽田から稚内へは直行便で2時間ほど。稚内からハートランドフェリーに乗り継ぎ、利尻島の鴛泊港までは、2時間弱。9時過ぎに家を出ても、到着するのは、18時近い。目的はもちろん、登山。

海抜0mから登り始めることもできるが、一般的には、標高200mほどの登山口から登り始める。それでも、標高差1,500m。登りっぱなしなので、日本アルプスの標高差1,500mよりはずっと楽だけれども、日帰りしなくてはいけない。登りより下りの方がきつい。私が登った日は、雲が多く、山頂付近で漸く青空が覗く程度だったが、それでも、お花畑やローソク岩、長官山からのすっと聳え立った利尻山などを満喫することができた。

 

礼文島は、少しの散策と、定期観光バスツアー。花の季節は終わっていたけれども、レブンウスユキソウの咲き残りなど、その片鱗を楽しむことができた。印象的だったのは海の色。深く濃い色をした透明な輝きは、沖縄のそれとは全く異なる魅力がある。空の色もまるで海の色に染まるように透明だ。この海に高山植物を抱えた草原を頂き柔らかくも、険しく聳える西海岸の風景は、一幅の絵のようだ。スコトン岬ではシオリガモ、バスの車窓からは、アザラシの群れを見ることができたのも良かった。

礼文から稚内に戻り、納沙布岬へ。夕日に染まる利尻山は登った身には、一入の思い入れを持って眺めることができた。

翌日は、レンタカーでサロベツ原生花園を経由して、旭川へ。ここからバスに乗り継ぎ、層雲峡温泉に入る。ここで一泊して、翌日に黒岳を目指す。さらに、旭岳を目指すが、荒天のため、登頂をあきらめて旭岳を巻く道を通って旭岳ロープウェイへ。この巻道は、お花畑が素晴らしく、結果的にはラッキーだった。秋の紅葉の見どころでもあるとのこと。登山の最後に道に飛び出してきた愛らしいシマリスとの出会いも忘れ難い。

 

下山後は旭岳温泉で汗を流し、バスで旭川へ。翌日、飛行機で東京帰着。

と、以上がざっとした旅の流れ。全般的に天気は良くなかったんだけれども、道北の魅力をいっぱいに感じることができたと思う。

あと食事。これはさすがに文句のつけようがなかった。利尻のエゾバフンウニ、モズク、ホッケは、今までの常識を覆す味。礼文ももちろん、美味しい海の幸だらけ。旭川のジンギスカンも◎。

  

また行きたいな、北海道。都市部はもういいけど(汗)。特に、利尻・礼文にはぜひ再訪したい。

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タイ国際航空を羽田で降りた翌々日、今度は、新宿からスーパーあずさに飛び乗った。よく揺れるこの特急は、雷雨の松本に定刻通りに到着した。ここでビジネスホテル泊。翌日朝一番の大糸線に乗って、信濃大町経由で神城駅へ。更に、無料の送迎バスに乗って、エスカルプラザに着いたのは朝の8時過ぎ。

朝からどんより曇った松本の空から、心地よく晴れた穂高駅を経て、この辺りでは、なんとも言えない、曇った空を仰ぐことになる。「雲が多い方が涼しいか」と考えつつ、テレキャビン、リフトを使って、地蔵の頭へ。ここから遠見尾根をひたすら登り、五龍山荘を目指す。

歩き始めて3時間。あまり良くなかった天気予報を裏切って、何とか、雨に濡れずに登ってきたが、ここで突然の豪雨。ぱらついたと思った瞬間、あっという間の雨。慌てて、雨具を装備する。不気味に低く唸る雷の音を頭上に聞きながら、なんとも悔しく唇を噛む。五龍山荘はもう目の前なのに、この雨。何とかいけると思ったのに。やむなし。

結局、雨具を着て30分ほど歩いて、五龍山荘着。濡れた道具を乾燥室に入れて、昼御飯を食べる。雨はほどなくして止んで、午後は、青空も出るまでに天気が回復した。目の前には、峨峨たる五龍岳が聳えている。カッコいい。夕方には、毛勝三山も見ることができた。立山連峰の北の端に位置する毛勝三山が南に見えることから五龍が如何に北に位置する山か実感することができる。ちなみに、五龍岳は長野の山と思われがちだが、厳密には富山県に位置する。後立山連峰は富山と長野の県境にあるので、何れの山もどちらの県に所属するのか厳密に言うことは野暮だとは思うけれども。

ところで、この山の名前、五龍と言うちょっとカッコイイ名前なんだが、その由来は、さほどカッコいいものではない。立山連峰の裏に当たる後立山連峰は、今でも、山を登る人は略して後立(ごたて)と呼ぶが、この後立の読み方を変えると「ごりゅう」になる。これに五龍の字をあてたのが、その由来とする説が有力だという。ただ、この五龍の名称、当初は現在の鹿島槍ヶ岳に付けられたものだという。確かに、この連嶺を遠くから俯瞰すれば、「後立」の盟主は白馬岳でも、現在の五龍岳でもなく、鹿島槍ヶ岳であるべきだとは思う。それがいつか、入れ替わってしまったという。ちなみに、五龍岳の山肌に残雪期、武田家の割菱(御菱(ごりょう)と呼ばれる)の岩が浮かび上がることから、転じて、五龍になったという説がある。これはちょっとカッコイイ説だが、信憑性はいささか低い。

さて、話を戻そう。五龍山荘でのんびりとした午後を過ごした後、夕食を取り、早めの就寝となったわけだけれども、どうにも寝付くことができない。しょうがないので、外に出てみると、雲の間にキラキラと満天の星空が輝いている。「明日は晴れるか」と嬉しく思って、ベンチの上に寝転がる。少し寒く感じるまで、星空を眺めた。

翌日は、2時に起床。3時過ぎに起きる予定だったのだけれども、目が覚めてしまったら、また眠ろうと思ってもあまり意味がないので、再び、星を眺めに表へ。雲が一切切れて、満天の星空はより輝きを増していた。黒々と浮かび上がった五龍岳の巨大な影の周りにも星の光が降り注いでいる。気の早い山人たちはテントの中で光を灯し、カラフルな光を幕営地に添えている。遠くには富山方面の街の光が見えている。星の光、テントの光、遠くの街の光。どれもそれほど強いものじゃないけれども、北アルプスの稜線の夜を美しく彩っている。

3時半過ぎ、山頂でご来光を見るべく、出発。暗いガレ場は少し怖くはあったが、なんとか日の出前に山頂へ。早朝の空の色の移ろいと、立山連峰をはじめとする北アルプスの展望を1時間ほど楽しんで下山。明るい空の下では、足場が確りと見えて、登りと比べてスムーズに進むことができた。最後に五龍山荘に寄って、休んでいると、ブロッケン登場。短い時間だったけれども結構綺麗に見ることができた。準備が整うと、さっさと遠見尾根を下りにかかる。午後は、雷雨の予報だったので少しでも早く下山したい、が、途中、振り返ると山が美しいし、高山植物も可憐な花を咲かしているので、ついつい、写真を撮ってしまう。そんなこんなで、五龍山荘から3時間で登り始めのリフトの駅へ。

登山終了。エスカルプラザで風呂を浴びてから、バスで長野駅まで出て長野新幹線であっという間に東京駅着。コンパクトながら充実した山旅を楽しむことができた。さて、明日から平日…。

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■ 奥白根山

久し振りの登山。日光の奥白根山へ。2,578mの標高を誇るがゴンドラで2,000mまで一気に上がることができる。日光だからにして観光ついでにどうぞ、ってほど舐めてかかると危ないかも。登山の装備は必需。だけど、初心者向けと言うことは間違いない。

朝7:30、丸沼のゴンドラが動き始める。登山者たちの列の最後尾に並ぶ。昨今は山ガールってのが流行っていると聞くけれども、相も変わらず、中高年に埋め尽くされている。そう言えば、百名山ブームってのはまだ続いているんだろうか。

8時頃、ゴンドラの終着駅着。いっぺんに登山者が登り始めるので、道が少し混んでいる。前を行く登山者の群れが一つのグループかと思いきや複数のグループだったりする。もちろん、相変わらずの団体さんもいる。列が長ければ長いほど、道を譲ってくれても抜くのが大変…。

奥白根山山頂まではコースタイムで約3時間。しかし、実際には1時間半ほどで山頂に到達することができる。登山をしない人が登ることも考えられたコースタイムなんだろう。

山頂は人が多いが、岩山ながらそこそこ広いので居場所は簡単に確保することができる。景色も良い。下は雲海に隠れがちだったが、日光の山々を大きく見ることができた。女峰山の峨峨たる魁偉、男体山の柔らかい山容が雲を抱き聳え立っていたのが印象的。遠く雲海の向こうには富士山も見える。

下に目を移すと深い碧色をした五色沼が見える。よし、あそこに行こう。30分ほどの山頂での憩いの後、五色沼目指して下っていく。近付くと、濃い色の沼の水は、透明度を増す。水面は風に煽られて少し波立っているが、周囲を囲む山々を映し込んでいる。ここは心地の良いところで、沼の畔には登山者が思い思いの格好で休んでいる。寝転がっているもの、岩に座っているもの、昼御飯を囲んでいるもの…のどかな風景だ。いつまでも、休んでいたいような場所だ。

後ろ髪を引かれる思いで五色沼を後にして、再びゴンドラの駅へ。休憩を含め、5時間半ほどの山行だったけど、気軽に楽しめる割にはなかなか面白い山だった…と言っていいかな。登山後の温泉は、日光の湯元温泉。良いお湯だった~。

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久し振りに映画を観てきた。『岳-ガク-』映画館で映画を観るのは『剱岳 点の記』以来である。同じ山岳映画ってことになるのかな。穂高連峰を中心に、北アルプスの雄大な風景が半端なく美しい。近頃低調な登山もそろそろ再開したくなる。

主人公は爽やかで真っ直ぐな好青年、島崎三歩。山岳救助のボランティアをしていると言う設定。ヒロインは駆け出しの山岳救助隊員、椎名久美。このヒロインの成長を描く物語。映画って滅多に観ないし、良い映画なのかどうかは判らなかったが、『点の記』に比べると、内容は薄い…ってのかな~?『点の記』は剱岳の山頂を競う男たちのドラマで、熱いパッションが感じられて、その思いの強さに男の生き様のカッコ良さを感じたんだけど、『岳』は山岳救助隊の使命感よりは、突風や雪崩、遭難シーン等が見どころでアクション映画っぽいイメージが強かった。

逆に言えば、視覚的には結構凄くって、ジャンダルムをバックに三歩が岩の上に立っているシーンなんて、凄くカッコ良かったし、雪崩のシーンや吹雪のシーンの恐怖感は、『点の記』より迫真の映像だったと思う。その分、山をやっていな人が観たら「山ってこえー」って感想になっちゃうかも。三歩の決め台詞「また山においでよ!」は観客には伝わらない。

ロケ地は殆どが、穂高。後立方面もちょくちょく出てきた。爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、白馬岳はちょいちょい写っていた。あと、穂高中心てことで、笠ヶ岳がやたら出てくる。ウェストン曰くのアンブレラ・ピークはその名の通り、綺麗な三角錐が魅力的。雲海に浮かぶその姿は穂高連峰からの最高の見物とも言われる。

穂高~槍ヶ岳は行ったことがないんだけど、映像に出てきた他の山は結構、行ったので懐かしかったなぁ。あの景色は、半端ないから。思わず、三歩の誘いに乗りそうになってしまう。


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海の日に丹沢の表尾根を縦走してきた。海の日に登山…山の日も作ってくれ。

天気の方は梅雨明けってことでさっぱり晴れていた。ここ数年海の日の3連休前に梅雨明けしたことってないんじゃなかろか?幸運…と言いたいところだが、夏の低山って気が狂いそうになるくらい熱い。山頂での憩いも容赦ない夏の陽射しに、うんざり。自分で計画しておきながらこういうのもなんだけれども、夏は森林限界越えは絶対条件。軽~い登山ブームがあるみたいだけど、「夏だ!山だ!」と言って、高尾山に突っ込んでいくと熱射病にやられるので注意したい。

さてさて、最近、噂の事業仕分け、「おらぁ、かんけーねー」と静観決め込んでいるとやられる。登山愛好家にも残念なお知らせ→事業仕分けで補助「廃止」、山小屋トイレ困った。曰く「有識者から「建設費を利用料で回収する方策を考えるべきだ」「受益者負担、汚染者負担の原則から、補助は説明がつかない」」…有識者ではあるが、まぁ、山のことを“有識”はしていないようだ。ラーメンの専門家とかw巨大な無駄を作るために、弊害があまりにもでか過ぎる…。

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トムラウシの大量遭難を契機に再び、中高年の登山を非難する報道が増えている。「戻る勇気が必要だ」とか、無知が何も考えないでしたり顔で語っている間抜けな報道も多い。日帰り登山なら露知らず、何泊もするような縦走で、進むべきか戻るべきかの判断はとても難しい。

ほかにもこんな報道がある。遭難者の80%、死亡事故の90%が中高年の登山者である、だから、中高年の登山は危険だ、と。ホント頭の悪い報道である。山に行けば、登山者の殆どが中高年であることぐらい一目瞭然だ。実感的には、90%以上が40歳以上の、いわゆる中高年の登山者。割合から言えば、中高年の遭難が多いとはいえないんじゃないだろか。遭難者の20%が30代以下であることのほうが不思議なくらい。

それにしても、なぜ、こんなにも登山は中高年のものになってしまったのだろうか。登山は、技術もいるが、やはり体力なくしては、話にならない。本来であれば、若い人の方が断然有利で、登山者にも若者の方が多くてしかるべきである。こうなった経緯(っぽいもの)をおいらの曖昧な知識でまとめると次のようになる。

そもそも我が国には、登山文化というものは存在しなかった。あったのは信仰登山、それに稀に職業的に測量のようなことをやっていたくらい。登山文化が根付いたのは、明治以降。ウォルター・ウェストンらが持ち込んだもので、小島烏水や小暮理太郎、岡野金次郎、田辺重治、武田久吉と言った人たちが、冒険心で信仰ではない登山文化にのめりこんで行った。

このころの登山は、まだまだ山が閉ざされており、大抵は地元の猟師や樵を道先案内人にしないと、大きな山には登れなかった。そこで活躍したのが、上条嘉門次、宇治長次郎、佐伯平蔵と言った人たちだった。彼らを雇うにはそれなりの資金が必要だったし、自然に対するそれなりの知識や探究心が必要だった。

だから、この頃の登山家は知識階級の人が多かった。山の男と言えば荒々しい感じがするが、インテリジェントだった。それが戦後になって、ダム工事が増え、交通網が発達し、登山口が近付くと猫も杓子も山に向かうようになる。登山ブームの様相を呈し、特に若い人が次々に山に向かっていった。難路を見出し、岩に取り付き、遭難が多発した。大学の山岳部も多かったが、この頃の登山者は、インテリジェントではなくなりつつあったようだ。若者の有り余ったエネルギーの矛先が山に向かっていった、と言う感じだろうか。学生紛争時代の血気溢れる若者たちならではの行動だ。

やがて、無気力化した若者たちは山から離れていった。いまや、大学の名門山岳部が次々と存続の危機に立たされ、山に行っても大学の山岳部の一行を見ることはだいぶ少なくなった。その代わりに、出てきたのが中高年の登山者である。朝日新聞が端緒となって、百名山ブームが全国を席巻し、そのブームを支えたのが中高年だったのである。山に、100名山、200名山、300名山と言うランク付けが行われ、100名山を中心に登山ツアー発達。知識も経験も浅い中高年の登山者が、こういったツアーに殺到した。

この中高年の登山者には、2種類のグループがある。一つ目は、ブームに乗って、中高年になってから山を始めたグループ。もう一つは、若い頃、登山ブームで山に登りまくっていて、年老いてゆとりが出てきて山に帰ってきたグループである。

前者は、年齢的なプライドはあるが、経験も知識もない。「今の若い者はだらしねぇ」と言って、若者より元気なつもりになっている人も多い。後者は、若い頃の自分と比べて、「やっぱ、体力落ちたなぁ」と凹んでいるが、知識も経験も豊富で、体力ではなく技術で山に登っていたりする。前者より遭難する可能性は低そうだが、自慢気に30年前の地図を見せびらかしたりするので、これはこれで危険だ。宝探しに行くんじゃないんだから、地図は最新のものを持って行かなければならない。もちろん、古い装備を自慢気に持ってくるのもこういう人たち。もちろん、きちんとした人もいて、こういう人は若い人の手本となる。おいらもいろいろ教えてもらっている。先人の知恵や経験は侮れない。

さて、こうして大増殖した中高年の登山者だけれども、最近は徐々に減りつつある。中高年登山者の遭難報道が多いせいもあるだろうし、前のパラグラフでの後者のパターンの人たちが老いてきたこともある。また、ブームが去りつつあるのも確かだろう。そもそも、中高年登山ブームのきっかけとなった日本100名山だって、深田久弥の個人的な「感想」でしかない。『日本百名山』と言う本を読めば、そのことは明白だし、深田だってすべての山を登っているわけではない。東北や北海道には、深田の足跡の残っていない名峰も多い。そんなものに振り回されてコレクションするのは金と時間の無駄だし、深田本人の意図するところでもないだろう。

そんなこんなで、中高年の登山ブームもやがて去るのだが、では今後はどうなっていくのだろうか。戦後の登山ブームと中高年の登山ブームのような形には戻らないと思う。好きな人だけが好きなように登る。おいらならコンデジ片手にふらっと登って、山の雰囲気を満喫する…それだけで幸せだ。山頂で絵を書いている若者を見たこともある。カメラを担いでいる人もいる。ブームとかじゃなくて、そうやって自由に山を楽しめるような時代が来るんじゃないか。そうなるといいな、と希望的観測を加えながら、思う。

そうすると、今回遭難したツアーみたいなのはなくなっていくんだろうな。今回の遭難の原因なんてはっきり言ってツアー登山と言う形態にあるんだから、まぁ、それもしょうがない。需要が増えすぎて、お粗末になったガイド、登山者の高齢化が進みトムラウシレベルの山で70歳以下と言う緩い縛りを設けざるを得なかったツアー会社、飛行機の予約等で無理をせざるを得ない時間的事情、ガイドがいるからと安心して参加してしまう登山者。誰が悪いって言うんじゃなくて、こういう欠点を誘発してしまう、ツアー登山と言うシステムそのものに問題があるんだと思う。

だから、自分で計画ができて、自己責任で自由な想いで登山する人たちが、山を目指す、そういう人が多いのが理想なんだな~。

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Example 1

白馬三山に縦走したときのことである。白馬岳本峰、杓子岳を経て、最後の白馬鑓ヶ岳の山頂で一服していると、中高年の集団がやって来た。簡単に挨拶を交わし、お互いくつろいでいると、一人が、目の前に聳える剱岳を指差して、こういった。

「あれ、あれが槍ヶ岳かしら?」

仲間が突っ込むだろうと期待したおいらが馬鹿だった。

「そうねぇ…」

耐えられなかった。

「あれは剱岳ですよ。槍ヶ岳はあっちの小さく見える山です」
「あーら、そうなの?アハハハハハ、とんがっているから槍ヶ岳かと思っちゃった」

話し始めたついでだったので、「どちらに行かれるんですか?」と訊いてみて、びっくりした。

「どこに行くのかしら?私よく知らないわぁ~。○○さぁん!(少し離れたところにいたリーダーっぽい人)次どこ行くのかしら?」

今どこにいるかも判らない、これからどこに行くかも判らない。3,000m近い日本アルプスの山頂で!!そもそも山に興味ないんじゃないだろか?

で、○○さんの口から出たこれから行くところを訊いて「は??????」と思ってしまった。この一団、この後、唐松岳を目指すのだそうだ。そう不帰のキレットを超えていくと言うのだ。その名が示すとおり、日本アルプス有数の難所である。おいらの山の師匠に言わせれば、「ヘルメットとザイルを持っていくべき」と言う場所である。なんとも…恐ろしいことである。

Example 2

昭和38年、後に言う「サンパチ豪雪」が日本海側を襲った。この年の年末から立山連峰の名峰、薬師岳(2,926m)に愛知大学のパーティが入山した。下山予定日は、1月6日。しかし、予定を1週間過ぎても、下山した様子がない。そして、愛知大学は富山県警に捜索願を出したのが1月14日。

若し、助かっていれば、太郎平小屋の扉が破られているはずである(冬季、山小屋は扉を板で打ち付けてある。緊急事態があると登山者はこれを破って小屋に入る)。しかし、22日に飛んだ新聞社のヘリコプターからは、太郎平小屋に人の気配は確認できず、パーティー参加者13名、全員の生存絶望が決定的となった。

薬師岳には、このときの遭難碑が今もひっそりと立ち尽くしている。

Example 3

五竜岳に登った時のことである。途中の大遠見で休憩していると、60がらみの男性が白馬岳を指差して、自慢気に語っている。

「今は皆、ハクバ岳、ハクバ岳と言っているけれども、俺が若い頃は、ハクバなんていわなかった。蓮華岳と言ったんだ」

もちろん、白馬岳のことをこの人はハクバ岳と連呼していたのだけれども、登山愛好家でハクバと言うのは少し恥ずかしい。村の名前はハクバ村だが、山の名前はシロウマ岳である。それと蓮華岳は地域的な呼称であって昔の人が皆、蓮華岳と言っていたわけではない。そのことは、昔の登山家の記録を読めば明白なこと。

山と付き合い始めてから長いのだろうが、残念ながら知識にはだいぶ欠落のある人の様だった。経験が正しい知識に結びついていない、悲しい例である。

Example 4

1967年8月1日、学校教育の一環として、西穂高岳に登山した松本深志高校の生徒、教員、60名が下山中に悪天候に見舞われた。危険を感じた一行は周囲に避難場所を求めたが、岩山である西穂高近辺に逃げ場はなかった。

そこに一閃、雷が走った。一瞬にして、9名が雷撃で、2名が転落して命を失った。落雷事故としては最大の被害が出たこと、若い高校生たちが犠牲になったことから、世間に大きな衝撃を与えることとなった山岳遭難である。

Example 5

年末に南アルプスの鳳凰三山に登った時のことである。夜叉神峠から入り、南御室の小屋で一泊し、翌日、早朝に薬師岳と観音岳の山頂まで行って、夜叉神峠に帰ってきた。森林限界より下は風もそれほど強くなく、青空の下、白峰三山が綺麗に眺められたが、山頂付近では激しい風雪に見舞われた。青空の下で見えた白峰三山も良くみれば、山頂付近で強烈に雪が舞っているのが確認できた。冬山の風は、非常に恐ろしいものである。

さて、下山して聞いた話しによると、ちょうどおいらが山にいる間に白峰三山の最高峰、北岳(3,193m)で遭難があったと言う。なんでも、外国の高山にも登ったことのあるベテランの夫婦が、軽装で入山したのだと言う。日本の山なんて…と舐めてかかったのだろう、と言うことだった。幸い、命は助かったとのことで、まぁ、一安心ではあったけれども。


山に行く人は色々いる。Ex1のようにとんでもない人もいるし、Ex3のように遭難とは直接関係ない知識だけど、長年山に登っていて、それだけでベテラン気取りになっている人もいる。悲惨な遭難事故もあるし、たまたま助かった人もいる。Ex1のような人でも遭難しないときは遭難しない。と言うより、大抵、遭難しない。

たとえば、高層ビルの屋上で柵の外側を歩いたからって、必ず落ちるもんじゃない。寧ろ、落ちない場合の方が圧倒的に多い。だけど、危険だ。何かあった時に、十分、責められること。Ex1はそう言うことをしているのだ。

さて…と、考える。自分は大丈夫だろうか、と。主観的に自分では大丈夫と思っているから行動するのだ。客観的にみて判断して、大丈夫なよう重々気をつけなければならない。

と、まぁ、こんなことを書くのは、トムラウシでの遭難事故があったから。10名もの方が亡くなった。北海道の自然を舐めているとか、行動がまずかったとか言われているが、それは外野の戯言だ。

大体、北海道の自然を特別扱いすること自体、自然を舐めている。本州の山は北海道の山より危険じゃないのか?そんなわけない。危険の種類が違うだけだし、今回のような事態は、本州の山でも十分起こり得ることだ。北海道の山に特化した問題じゃないだろう。

ガイドさんの行動も問題視されている。朝、天気が大荒れだったのに出立したとか、足が速くて付いていけなかったとか。確かに、おいらなら、天気が大荒れの状況で避難小屋から出ることはなかっただろう。でも、それは個人で行ったときのこと。これだけの大人数での行動となると、何が起こったのか、憶測で語るのは危険すぎる。下山の足が速くなったのも、足の遅い人に合わせていたら助かる人も助からなくなると思ったからかもしれない。真相を知らない外野がしたり顔で偉そうに非難するものではない。

何はともあれ、「山を愉しみたい、北海道の大自然を満喫したい」、そう言う純粋な気持ちで山に行って、こういう悲惨な目にあわれた遭難者の方々のことを考えると、胸がつまされる。どんな気持ちで、助けを待っていたのだろうか、冷たくなっていく体を抱えて、何を思い、何を考えていたのだろうか。そんなことを思うと、可哀想で、可哀想で仕方がない。

あ、ただ、これだけは言わせて。

登山は中高年のものじゃない!むしろ、体力のある若者向けのものである、と。

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山上の想い。一体そこで、私に限らず、人々は想いらしい想いを抱くことがあるのだろうか。大きな風景がのしかかり、下からのしあげ、私を静かな混乱におとし入れようとする時、それらの風物から自分の内部を守るために、遥かなる天を見たり、仰向けに臥たりしてみるが、山上で想念を整えることは決して易しいことではない。それは多くの場合、雲の去来のように、自分のこととは言えないようなところを通りすぎて行くに過ぎない。
想念と言うよりは、それは幻影に近い。雲や霧の中に、私の姿が夢の中の見知らぬ人のようにうつる、あの影に似ている。岩上の想いというものは影である。(串田孫一『山歩きの愉しみ』「岩上の想い」より)


夏…山だなぁ。とは言え、高山の夏はとても短い。7月も半ばになって雪が漸く少なくなる。道がしっかり出来てくる。しかし、8月下旬には早くも肌寒い秋の風を感じさせ、10月上旬には初冠雪を観る山が多い。後は、雪に閉ざされた世界だ。

雪山には何度か行ったことがあるけれども、それはもう、ホントに「閉ざされた」と言って良いような世界だった。晴れれば、青空に雪は煌き、冷気を含んだ風は、気持ち良くもあるが、ふと、周りの山々を見渡せば、雪の白と岩の黒だけが、織り成すモノトーンな世界。そして、少しでも天気が崩れると、岩山は地獄の様な様相を呈し、純白の雪は、悪魔と化す。そこには、生命感は少なく、ただただ、無限の世界が広がっているような恐怖がある。まぁ、そういうものも美しくないとは言えないのだけれども。

雪山に対して、夏山は生命感が溢れかえっている。草木は風に靡き、雪は解けて冷たい水を生命に与える。残雪の白、草木の緑、空の青、源流の透明感、黄、白、橙の花々!!派手な色合いではないけれども、その美しさは鮮烈で、見るものを感動に誘う。天国的な景色だ。しかし…そう、先にも書いたように、こんな風に山が微笑むのは、1年の中でもほんの一瞬。夏…山に駆り立てるのは、その一瞬の輝きの中に、身を浸したいがための人間の贅沢。

天国的な高山の山頂で、ぼんやりもの想う。そういう贅沢。串田孫一が言うように、幻影に近いような想いだけど、それは何物にも変え難いくらい、得がたい贅沢なのだ。だから、そう、何時からか、無駄なピークハントはしないようになった。

何千、何万の人が踏んだピーク。それに今更小市民の一足跡を残したところで、何の名誉になるだろう?何の自慢になるだろう?それより、ほんの一瞬の夏の輝きを満喫したい。山頂で長いことぼんやりとしていたい。名誉や自慢のためじゃなく、自分の憩いのために。

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