音楽とは、一瞬で消えていく創作物である。そう言うものであって、そうであるべきものである、と考えたのはチェリビダッケ。一期一会にすべての価値があると考えたのだろう。だから、レコーディングを殆どしなかった。ライヴ録音が没後遺族の許可を得てリリースされたが、生前はほとんど録音がリリースすることは許されなかった。ただ、大衆が広く音楽を楽しむのに、録音は大きな役割を果たしてきたのは確かなこと。音楽の本質を失うと言う考えはあったとしても、音楽の平等化、大衆化に大きな役割を果たしたことには間違いない。録音がなければ、おいらも、こんなに音楽を親しむことはなかっただろう。
当たり前のことだが、録音のなかった時代の音楽は、一瞬で消えていき今は残っていない。残せたのは“楽曲”だけである。しかし、時代を遡れば、“楽曲”すら正確に残せない、楽譜のない時代だってあった。その音楽は、本当に、一瞬で消えていく創作物だったのかもしれない。演奏者の頭の中にだけにあって、人から人へと引き継がれていくうちに形を変えていく。いや、一人の人だって、時を経て曲を変えて行ったかもしれない。“かもしれない”だらけだが、それはあたりまえだ。なにも判っていないから。
さて、先日とある1枚の実験的なCDを買った。実験的と言うとゲンダイ音楽に似合いそうな言い回しだが、このCDは古楽だ。『ポワティエ伯の歌』と言うこのCD、なんと11世紀末のギヨーム9世の音楽を再現したと言う。
ギヨーム9世は吟遊詩人(トルバドゥール)の先駆け的な人物で、多くの恋愛抒情詩を残している。彼自身はその名の通り、1国の王だが、彼を起源としたトルバドゥールは、街から街、村から村、そして城から城へ歌を歌って歩いていた。トルバドゥールのその奔放で自由な生活スタイルは、ワーグナーも魅了されたのだろうか、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は有名なトルヴァドゥールの一人、ハンス・ザックスの物語だ。つか、この1曲のお陰で1番有名なトルバドゥールになったかもしれない。
さて、そんなトルバドゥールの音楽だが、基本的に楽譜はない。口承のみ。だって、放浪の歌手だから。それも現代の記譜法が確立される何百年も前の音楽。それでも、古楽の奏者たちは果敢にその音楽を再現してきた。そして、今回のCDなんだけど、そのトルバドゥールの起源の音楽に挑戦した。果敢も果敢、勇猛果敢(笑)。もちろん、正解ではないかもしれない。だけど、確かに感じるのだ。古の時代の淡いノスタルジーが。歴史のロマンってやつかもしれない。音楽は、一瞬で消えていく創作物であるが故に、歴史のロマンとは遠い所にあったような気がするんだが、このCDは容赦なく近付いていく。11世紀、平安時代の音楽へと誘っていく。まるで、平安時代のくすんだ屏風が、いきなり色彩に溢れ、当時の姿を取り戻したような錯覚がここにはある。
演奏者は、ブリス・デュイジと言う人。歌とフィドルを一人でこなす。明確で流麗なメロディはなく、詩の朗読に伴奏をうつけたような音楽を力強く、歌いあげていく。
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