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現代にモーツァルトやベートーヴェン、ブラームスのような音楽家は出現しないのか?いや、もう出現していて実は気付いていないだけなのだろうか?何百年も後には、結構聴かれているんだろうか?音楽を聴くようになってから今まで、そんな疑問を持ち続けていた。今、自分の中で納得のいっている説を色々なものからの受け売りを交えつつ、小生意気な考察をしてみる。

まず、この疑問について、ちょっと前のこのブログでクリストフ・フォン・ドホナーニの興味深いインタビューを紹介したことがあるので、以下に再掲しておこう。

Q.(21世紀に)20世紀から残っていくもの(音楽)は?
A.20世紀前半からは、数多くのものが残るでしょう。後半の方が、同時代人としては判断が難しいですね。第2次世界大戦後に書かれたもので、私から見て本当に強力な持続性を持つと思われるものはとても限られていたと現時点では申しておきますが、的外れになるかもしれません
(『指揮者が語る!』D.D.ショルツ著/蔵原順子、石川桂子訳/アルファベータ/2008年より抜粋)

自信なさげだが、この見識は正しいと思う。

これまで西洋音楽は中世からルネッサンス、ルネッサンスからバロック、バロックから古典派、古典派からロマン派へと新しい形を求めながら華麗に、発展的に進歩してきた。そして、たぶん、ほぼ完成形に近付いたのがロマン派の音楽だ(だからと言って、単純にロマン派の音楽が、ルネサンス音楽よりも優れていると言うわけではない)。

しかし、近現代の作曲家はさらなる変貌を音楽に求めた。それが、印象派や新古典主義、新ウィーン楽派と言った、20世紀初頭の音楽だ。これらは、ある程度の成功を収めたが、ロマン派や古典派のような大きな潮流を作るほどではなかった。そして、これらの楽派の後を受けた戦後音楽は、更に試行錯誤を始める。こうして、20世紀後半、戦後の現代音楽は「強烈な持続性を持つ」大きな流れを失っていった。

これまで西洋音楽が成功してきた、次時代への華麗なる転換を20世紀初頭に敢行して、「失敗」したのである。ロマン派と言う偉大なる前任者への挑戦が、何百年も綿々と発展してきた西洋音楽に一つのピリオドを打たせた。そうして、音楽は作曲する時代から演奏する時代へと移っていく。

とは言え、今なお、作曲する人たちは数多くいる。優秀な人もいるだろう。しかし、今日には、ロマン派、古典派、印象派と言った大きな拠り所はない(もちろん、それらも当時は現代音楽だったのだが)。そして、西洋音楽の完成形であると思われるロマン派的手法は語りつくされてしまった。こうした行き詰った状況にあっては、モーツァルトやベートーヴェンは出現し得ない。

これがいまの一つの結論。たぶん、色々間違っているだろうけど、自分自身の中で今のところ納得しているものだ。

さて、西洋音楽は、ポピュラー音楽も含まれる。世の人はクラシックとポピュラー音楽の間に高い壁か、深い溝を作りたがるが、実は、ポピュラー音楽だって西洋音楽史の中の一部分に過ぎない。真剣にポピュラー音楽を聴いていないので、偉そうなことは言えないが、ポピュラー音楽は実は、ロマン派の流れを汲んでいる(以前の記事を
参照)。ロマン派までの手法を必死に否定し、聴衆から離れて行ったゲンダイ音楽よりもロマン派に従順だ。

ただ、ポピュラー音楽の音楽家とロマン派の作曲家に大きな違いがあるとすれば、「100年後には私の時代がくる」と言うマーラーの言葉に代表されるようにロマン派の作曲家たちが後世に名声を得ることに執着していたのに対して、ポピュラー音楽は、今現在に名声を求める傾向があると言うことだ。もちろん、ロマン派の作曲家とて、生前の成功も望んでいたには違いないが、それ以上に自分の寿命以上に生きる作品を意図的に作曲していた。だから、長く聴かれているのだ。

対して、ポピュラー音楽の音楽家は今現在、名声を得たいと願っている。10年後のことはそれほど興味がない。時流に合わせた曲を新たに作ればいいと思っている。と言うことで、平易で短く、馴染みやすい曲になった。世俗に応じて俗っぽくなった。音楽の商業化、大量消費が横行し、人々は次々に流行を追い求めて行く。

と言うと、悪口に聴こえるだろうが、なにも、クラシックと言う言葉でひとくくりにされている19世紀以前の西洋音楽(随分乱暴なくくりだが)だって、ロマン派のように偉ぶった高尚な音楽ばかりではない。

例えば、イギリスのルネサンス期に活躍したダウランドと言う作曲家は、言ってしまえば、今で言うところのシンガーソングライターだった。ギターの原型であると言われているリュートを演奏しながら歌える、数分程度の曲を作曲していた。その中から『流れよ、わが涙』のようなヒット作品が生まれ、欧州各地で歌われるようになった。いまのポップスシーンでも見られるような形ではないだろうか。欧州各地で歌われた、ってのも、カラオケみたいなものだ。

ルネサンス期の音楽と言う比較的マイナーな事例をあげずとも、バロック音楽だの、古典派音楽だのと言うのも、ずいぶんな音楽だった。J.S.バッハのゴルドベルク変奏曲が眠るための音楽であることは有名だが、その他の音楽だって、それほど高尚な目的で書かれているわけではない。例えば、テレマンで有名なターフェル・ムジークと言うのがある。これはテーブル・ミュージック、即ち、食卓の音楽と言う意味だ。言ってしまえば、食事のときに流しておくための音楽。食事中だから、リスナーはおしゃべりもするだろうし、聴いていないこともしばしば。ひどい話である。

ターフェル・ムジークは露骨だが、モーツァルトの作品だって、彼の演奏している昔の画を見ていれば、しばしばターフェル・ムジークのような扱いを受けていたのは明白である。

そして、これらの作品は、大量に作曲され、消費されていった。例えば、モーツァルトの作品数を見れば、そのことは明白だ。わずか、35年の生涯で600曲以上。いくら幼少期から活動したとはいえ、オペラのような大作を含めてこれほどの曲を書かなくてはならなかったとは、凄まじい。

このようにバロック、古典派の作曲家は、今のポピュラー音楽同様に、今現在の成功を求め、世俗に媚びて極めて俗っぽい。そして、リスナーにわかりやすいようにするためなのか、同じような曲が多い。だから、ポピュラー音楽を「世俗に媚びて俗っぽい」「音楽の商業化、大量消費が横行」と言って批判をすれば、すぐバロック、古典派にも同じ批判が当てはまってしまう。

で、さて、遠まわしになってしまったが、では、こういう音楽は数百年後に評価されているのだろうか。残念ながらそれは「否」である。確かに、モーツァルト、ハイドン、J.S.バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデルと言った一部の偉人は名前が残ってはいる。しかし、ほかはどうだろう?残っていると言っても、一部のマニアが喜んで聴いているだけだ。バロック&古典派の200年の歴史は、その後、たった半分の歴史しかないロマン派音楽よりもずっと印象は薄い。

そう考えれば、ポピュラー音楽もまた、同じことになるのかもしれない。結局は、ドホナーニが言うように「本当に強力な持続性を持つと思われるものはとても限られていた」と言うことになるんだと思う。

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