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なぜ、のだめブームの日本でそれほど話題になっていないのか→グストヴォ・ドゥダメル&シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(SBYO)。小説(漫画)より奇なる現実。時折コンサートのあるのだめオーケストラよりもずっとリアルR☆Sオーケストラ…いや、超越。のだめのブームを受けて即席で出来上がった楽団とは全く違う。

とは言え、クラヲタの中では当然、話題になっているわけで、今、新譜が楽しみにされている屈指のアーティストと言えるのではないだろうか。

さて、今回は、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』とレブエルタスの『マヤの夜』のカップリング。『春の祭典』については「やっぱり、早い段階でリリースしてきたかぁ」と言うのが多くの人の反応じゃないだろうか。マーラー、ベートーヴェンと、これまでロマン派の作曲家を取り上げてきていたけど、やっぱ、これだけノリの良い楽団ならこの曲は録音するべきでしょう!そして、誰もが想像したはず。パワフルでノリのいい、史上最強の『春の祭典』を。

しかし、期待が大き過ぎた。もちろん、ダメってわけじゃないんだけど、なんだか、上手すぎる。力強くはあるんだけど、案外、きれいにまとまっちゃっている感じ。『春の祭典』だからにして、演奏史上、これまで凄まじい爆演が繰り返されて来ている。そう、爆演系は演奏され尽くされていたのだ、と気付かされる。だから、逆にサロネンのように、サラッと流されると衝撃的に斬新な音楽に聴こえちゃったりするのだ。そうして、サロネンを機にこの曲は古典になってしまっていた(のかな?)。マーラーやベートーヴェンと同じようなもの、とまでは言わないが、若いSBYOにとってはそれほど新しくて特別な存在じゃないのだろう。汗飛び散らせて、必死に楽器にしがみつかなきゃいけない曲ではないのだ。だからスリリングでもない。

面白いのは『マヤの夜』。打楽器が乱舞して、金管が咆哮する。その隙間を縫うように弦楽器がキリキリ舞い!こういうのはまさにSBYOのお手の物。のりにのっている南米のオーケストラ×南米の曲だからにして、凄く面白い。凄い迫力と力強いリズムが怒涛のようにスピーカーに押し寄せる。

さて、ドゥダメル&SBYO、次は何を出してくるんだろうか。モーツァルトで衝撃的な演奏繰り広げてくれたりしたら◎。あ、古典派ならハイドンの方が面白いかも。パリ・セットとか良いんじゃないだろか。まぁ、古典派以前をやることはないだろうなぁ、現実的には。


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タリスと言えば、ヴォーン・ウィリアムズのトマス・タリスの主題による幻想曲。圧倒的にこの曲が有名。本人の曲じゃないのに…ね。で、この曲のお陰で、随分、有名になった、と言うのは確かなんだが、ルネサンスの作曲家ではそれでなくてもだいぶメジャーな存在なのだ。まぁ、ルネサンス音楽は「誰でもどこかで耳にしたことのある音楽」と言うのは絶無に近いので、ルネサンスではメジャーとは言え、タリスの音楽も有名曲はない。少なくても一般人レベルではない。

とは言え、クラヲタ的には随分と興味深い曲もある。その一つが40声のモテット『我、汝のほかに望みなし』である。40声って…どんだけだよ。8人×5声ということだが、常人の耳では一つ一つのパートを聴きとることは難しい。でも、40声が混然と歌いあげられると、こうも重厚かつ、壮麗に鳴り響くものかと、ただただ唖然とさせられる。声の力って凄いなぁ、と思わされる逸品だ。この凄味はオーケストラでは出せないし、ましてや電子音では…。ちなみに、この曲はエリザベス1世の40歳の誕生日に捧げられた曲だそうだ。

今聴いているCDはハリー・クリストファーズ&ザ・シックスティーンによるもの。COROと言うザ・シックスティーンの自主製作レーベルからリリースされている。録音は、当然、教会。残響が美しい。この演奏も素晴らしいが、ふとローザンヌ声楽アンサンブルでも聴いてみたいと思うのは、ラ・フォル・ジュルネの影響だろうか。あまり、ルネサンス音楽を演奏したと言う話は聴かないんだけど、録音がないだけかなぁ?ちなみに、ザ・シックスティーンとか、タリス・スコラーズとかはルネサンスのスペシャリストってイメージ。いつか、教会で聴いてみたい。東京なら東京カテドラルかな?

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アンモナイト増殖中…うん、harmonia mundiのことだ。いつの間にか、最後にFRANCEとは付けなくなったらしい(でも、便利なのでHMFと略す)。もうdeutsche harmonia mundi(DHM)と区別しなくてもよくなったのか。あ、そうか、DHMにもちゃんとdeutscheと入っているから、敢えて両方に入れる必要がなくなったのか。

DHMはBMG傘下(今はSME)になったけれども、HMFは今もちゃんと独立して頑張っている。ちなみに、もとは同じレーベルなので、信用度70%の超便利なインターネット百科事典Wikipediaの「両者に関係はない」みたいな表現は御幣を招く恐れがある。両者に関係はないっちゃないが…。

もとは同じレーベルだからにして、方向性も似通っている。クラヲタにとっては、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことだが、共に古楽をメインに置いたレーベルなのである。しかし、DHMの方がSMEの古楽分野担当として立場が明確なため、その方向性は徹底している。そして、アーノンクール、レオンハルト、クイケンら古楽界のスターを擁しているのもDHM。でも、おいらの所有で増えて行くのは、HMF。別にDHMが嫌いなわけじゃないんだけれども、欲しいCDはHMFの方が多い。

昨今、軽く古楽がマイブームになってきて、尚更その傾向は強くなっている。正直言って、「古楽って演奏者とかあまり知らないからHMF買っておけばいいや」と言う投げやりな思考も無きにしも非ずだ。クラシック初心者に「とりあえず黄色いやつ買っとけばいいよ」と言うのと同じである。それで、高確率で良いCDと出会えるんだからHMFは便利なレーベルである。未知の名演奏家とも出会える。スーパースターはいないんだけど、ポール・オデットとか、アンドリュー・ローレンス・キングとか、地味に凄い演奏家もいる。

あと企画が素晴らしい。好奇心をくすぐる企画が盛りだくさんなのだ。ルネサンス音楽のオムニバスを作るにしても、単なる有名曲集に陥らない(いや、ルネサンスに有名曲がどんだけあるか…は不明だが)。きちんとしたコンセプトに基づいて作るからちぐはぐなことにはなり難い。だから、聴いていて心地が良い。内容を確認して聴く気になる。

ジャケットも美しい。廉価盤シリーズのmusique d'abordはいまいちだが、通常盤は良い。古楽系のCDは昔の絵画を用いたものが多くって、一見、ベタなクラシックCDのジャケットなんだけど、内容と見事にマッチしていて、“CDを持っている喜び”を感じさせてくれる。“ジャケ買いはあたりが多い”と言うのは、第一印象で人の評価の多くが決まるのと同じで、あながち馬鹿に出来たものではない。だから、HMFのようなCDの作りは良い気分でCDを聴けると言う長所もあるのだ。

こうして今日もポチッと…CDが増えて行く。


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行ってしまった、秋葉原。CD買いに。GWくらいから買ってなくって、このまま6月を迎えようかと思ったんだけど、集中力が途切れた(集中力…要らないかw)。もちろん、目的地は石丸電気ソフト館。相変わらず、店の前に謎の集団が列をなしている。いや、謎ではない。薄々とはなんなのか気付いているのだが、さて、具体的に何なのか分からない。並んでいるのは男ばかり。おいらと同じくらいの年代の人も随分といる。秋葉原だからね。だって、秋葉原だから。

この行列は、どうも店内にもいるらしくて、落ち着いた風を装っている(!)クラシック・コーナーにも男たちの浮かれた声が聞こえてくる。上からも、下からも…。

こうして売り場の音を気にしだすと、もう一つ気になることがある。クラシック・コーナーで流している音楽だ。お勧めしたいソフトが色々あるのは判らないではないが、色んなソフトをいっぺんに流し過ぎである。あっちのDVDからはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、こっちのDVDからはチャイコフスキーのピアノ協奏曲、で、店内にまた別のCDを流している。「あ、この録音いいな!」と思う可能性を限りなく引き下げてしまうやり方ではないだろか。

さて、それはともかく。今回、石丸に行ったのは、目的のCDがあったから。結局、1枚たりともおいていなかったと言うことで、軽く敗北っぽい感じなんだが、まぁ、大抵はそう言うことになるので、たいして気にしてはいない。あったとしても、実物を手にしたら、「いらねっか…」ってなることもあるし、あまりマークしていなかったCDが「これいいんじゃないか?」となることもある。そもそも、何の予定もせずにCDショップで良さげなCDを見つけて買った場合、意外とあたりになる場合が多い。音楽の良し悪しって、聴き手の気分に左右する部分が多いわけだから、今聴きたいと思ったCDを帰ってすぐ聴けると、そりゃ、まぁ、気分が乗っているから、良く感じるものだ。

で、今回の“あたり”は、『妖精の騎士』と題された1枚。サブタイトルに「ルネッサンス期イングランドのバラッド(歌)と舞曲」とあるように、古楽である。古楽と言うと、さも古臭い音楽を聴いているように思われるが、この先入観は、古楽のCDを聴くと軽く裏切られる。楽譜のない時代、楽譜があっても、正確に再現することが難しい時代の音楽は特にそうだ(中世、ルネサンス音楽の多くがそう言うことになる)。一体、どの楽器でどういうリズムで演奏したら良いのか、検証しながら演奏されるため、演奏団体によって全く別の音楽になってしまうことも十分にありうるのだ。

そして、それらにたぶん正解はない。と言うか、そもそも正解は存在しない。同じ曲でも、正確に伝える技術がなければ、時代や場所によって随分と違う形式で演奏されていたと考えられるからだ。よって、古楽を演奏する場合、それは奏者の解釈に大きく頼るところとなるわけだ。再現性を追い求めているのか、個性を押し出すのか、何れにせよ、個々の音楽性に頼ることになるため単なる古臭い音楽にはならないのだ。じゃぁ、それは古楽とは言わないんじゃないか、と言われれば、それはそうではない、と言うところが面白いんである。

とちょっと、最近読んだ何冊かの本から得た知識で軽くシッタカをしてみたが、古楽の知識は浅薄だ。

それで、話を戻そう。えーと、そうそう『妖精の騎士』である。サブタイトルにあるようにルネサンス(15~16世紀)期にイングランドで歌われていた世俗曲である。スカボロ・フェアとか、グリーンスリーヴスとかは今でもポピュラーなメロディだろう。スカボロ・フェアはサイモン&ガーファンクルによって一躍有名になったわけだけれども、ここに収められているスカボロ・フェアはこれとはだいぶ違う版。詳細は割愛するが(興味があったらググって欲しい←なげやり)、サイモン&ガーファンクルの原典の更に原典くらいの音楽だ。ちなみに、タイトルの妖精の騎士と言うタイトルは、ある歌につけられたタイトルなのだが、この歌にはいくつものバージョンがあって、そのうちの3曲がここに収められている。実は、スカボロ・フェアも妖精の騎士のうちの1バージョン。なので、ほかの2曲と歌詞が似通っている(具体的には、「パセリ、セージ、ローズマリ、タイム」と香辛料(ハーブ)を列挙するくだりなど。微妙に異なるのは口承ゆえの混乱)。

スカボロ・フェアにしても、グリーンスリーヴスにしてもそうなんだが、ここで聴く音楽は何と新鮮なんだろう!だから、古楽は古臭くない!と思わせてくれるものだ。グリーンスリーヴスは、ヴォーン・ウィリアムズが随分と瞑想的で美しい幻想曲に仕立て上げてしまったせいで、静かな曲と言うイメージが刷り込まれてしまっていたが、ここではノリノリの恋愛歌だ。酒場で陽気に歌って手拍子でも入れていたのだろうか。と、古き時代に思いを馳せるのだが、まるで今まで聴いたことのない響きだもんだから、新しい。スカボロ・フェアもなんとメランコリックで美しい音楽なんだろうか。

おっと、まだ奏者を紹介していなかった。メインはヨエル・フレデリクセンと言うバス&リュート奏者。そう、歌いながらリュートを弾くんである。凄い渋い声なのに透明感があってむっちゃカッコいい弾き語り。容姿もこれらの曲を歌って歩いていた吟遊詩人っぽくって◎。彼の周りで盛り上げているのは、アンサンブル・フェニックスと言うフレデリクセンの創設したミュンヘンの楽団。曲によってはテノールやカウンター・テナーも入って大いに盛り上げる。特に、Lord Darlyでの3人の歌手の掛け合いは実に楽しい。

またひとつ素晴らしい古楽の世界を知ることができた。猛烈にお勧め。

最後にグリーンスリーヴスについて、雑学めいた知識を紹介しておく。このグリーンスリーヴス、要するにそのまんま「緑の袖」と言う意味なんだけど、これは草叢で寝転んで袖が緑に染まる、と言うことだそうだ。転じて、娼婦のことを指すと言う。昔の絵画で緑の袖の女性を見かけたら娼婦を描いたものだと理解していいのかもしれない。

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携帯電話の待ち受け画面に星座占いが出る。毎日何とはなしに見てしまうんだが、昨日は、なんと、1位だった。「かっこいいとか、かわいいとか言われるかも!」と…それは下地がなきゃ無理じゃないか?とは言え、1位とは気持ちが良いじゃないか…!

が、しかし、昨日は首が回らなかった。ア○ムと武○士と…じゃなくて、寝違えて。今もまだ痛い。いつもイタいんだが、そうじゃなくって(汗)。せっかく星座占い1位なのにまるで楽しめない1日になってしまった。いや、そもそも1日中悶絶したのになんで1位なんだ?とか、まぁ、占いなので、真剣に怒らない。

さて、今日は、ちょっと前に買ったメユールの交響曲を聴いている。Warnerの廉価盤シリーズ、apexで再発となったミンコフスキ&ルーブル音楽隊による演奏。

メユールは、1763年生まれのフランス人作曲家で、パリ音楽院の創設メンバー。オペラで成功した人である。つか、古典派の頃の作曲家ってオペラありき。オペラが成功しなければ大成功することは難しかった。ハイドンなんて、今じゃ、全然オペラは評価されていなくって、実際、オペラの得意な作曲家ではなかったと思うんだけど、それでも結構たくさんオペラを書いている。モーツァルトだって一番力を入れていたのはオペラだった。そんな状況だったから、メユールも頑張ってオペラを書いて成功をおさめたのだろう。

でも、今日、古典派のオペラなんてモーツァルトとグルックの一部の作品を除けば演奏される機会なんて滅多にない。そして、古典派のたいていの作曲家は忘却の彼方へ…。メユールもそんな残念な作曲家の一人である。が、最近の物好きな演奏家の皆様のお陰で、録音がいくつも出ているようだ。

いま、ここに聴いている交響曲は第1番と同第2番であるが、交響曲は全部で4曲(加えて、未完の曲が1曲ある)あると言う。注目すべきは、交響曲第1番。これは…びつくりする。ベートーヴェンの交響曲第5番にそっくりなのだ。もう少し正確に言うと5番を古典派に退化させたような音楽である。1楽章から何となくベートーヴェンを感じるのだが、終楽章が激烈にベートーヴェンなのだ。「運命の動機」にそっくりな一節が頻出して、それが曲を支配し、盛り上げていく。ただし、ベートーヴェンよりも古典派色が濃く、流麗で聴き心地はいい。

作曲時期は、ともに1808年。初演は、ベートーヴェンが、作曲と同年でメユールが翌年。これは、もう、どっちがパクッたかは判らない。まぁ、どちらがパクッたにせよ、ベートーヴェンの作品は生き残り、メユールの作品は歴史の闇に埋没しようとしている。それが全て。とは言え、似ている駄作として捨て置くにはこれはこれでもったいないなぁ。


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最近、珍曲案内っぽくなってきているなぁ、このブログ。一応、弁明しておくけど、マイナーな曲聴いているだけで、通になった気分になっているわけじゃないのだ。中2病患者だけど、そこまで痛々しくはないつもり。つか、そう言う感覚は学生の頃の早い時期に終えた。痛々しかったあの頃…黒歴史。

さて、そんなこと言いつつ、今日は、ヨハン・マルティン・クラウス。ま、マイナーだね(汗)。実は、前回の記事にもサラリと登場していたのだ。そう、古典派の作曲家。またかよ…って(汗)、ごめんなさい。古典派にはまっているからにしてこういう人が出てくるわけだけれども。

では、早速、本題へ。クラウスは1756年生れ、1792年没のスウェーデンの作曲家である。ここで「おやっ?」と思われる方も多いだろう。そう、モーツァルトと同じ年に生まれ、モーツァルトの没した翌年に没しているのである。ただ生没年が近かっただけではない。音楽修業の旅でウィーンに立ち寄った際、モーツァルトとも会っていたのではないかと言われている。また、モーツァルトとはフリーメイソン仲間であったことから、より深い仲であったことも想定し得る。

と言うわけで、安直にスウェーデンのモーツァルトと呼ばれている。しょうがない。残念だけど、しょうがない。クラウスはクラウスなのにね。やっぱ、モーツァルトが偉大すぎるのだ。

さて、北欧の作曲家と言うとシベリウスとか、ニールセンとか、グリーグを思い浮かべて、「あー、あの雰囲気ならいいな!」と思うんだけど、クラウスは北欧の作曲家以前に古典派の作曲家。だから、ちっとも北欧っぽさを感じさせてくれない。確実に、北欧音楽マニア向けではなくて、古典派マニア向け。ストックホルムのグスタフ3世に仕えていていたと言うだけあって、古典派の他の作曲家同様、王室向けの作曲も随分しているはずだ。

今回聴いているのは、コンチェルト・ケルンによる交響曲集。没後200年を記念してがカプリッチョに録音したもの。2種類あるんだけど、これがこのたびセットでお安くなって再登場した。僥倖也。

クラウスは前述の通り、古典派の作曲家なんだけど、この交響曲集を聴く限り、古典派の作曲家たちの大好きな「形式」に捉われない人だったみたいだ。響きからは確かに古典派の香りがプンプンしてくるんだけど、あの決まりきった結末をみるような居心地の良さはない。そう、毎回同じストーリーなのに『水戸黄門』を見てしまうあの中毒的な感覚がないのだ。例えば、シンフォニア・ダ・キエーザ。1楽章はまるっとアンダンテ・マエストーソ。2楽章がアレグロ・マエストーソ。で、終わってしまう。さらに、古典派の作曲家が大好きなメヌエットも、この交響曲集に収められている8曲のうち1曲でしか使われていない。加えて、8曲中3曲が短調の曲と来ている。明るく朗らかな音楽が大好きな古典派の作曲家とは思えない。

要するに、クラウスは没個性を良しとした古典派の作曲家ではなく、個性こそ偉大なロマン派の作曲家に近い感覚を持っていたのだと思う。そして個性を求めて試行錯誤した、その成果として残されているのが、ここにある交響曲なのだろうか。古典派の響きがあるとはいえ、どの音楽も表現力が豊かで、古典派の交響曲にありがちな淡々としたイメージは薄い。時にはもの悲しい調べを奏でるんだけど、こんな美しくも儚いメロディを書く古典派の作曲家ってどれほどいただろう?若し、この作曲家があと10年、20年生きていたらどういう風に成熟していったのだろうか。きっと、メジャーな作曲家にはならなかったとは思うんだけれども、聴いてみたかったなぁ…。

それにしても、コンチェルト・ケルン、ホント、良い仕事しているなぁ~。古楽系の楽団は、星の数ほどあるけど、これほど独特の活動をしている楽団はなかなかないのでは?しかも、上手いときているからたまらない…。


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これはクラシックを聴かない人たちには意外な話になるだろうが、クラシック音楽(定義は兎も角)とは、恐ろしく貪欲な音楽である。新しいジャンルの音楽が出てこれば、すぐそれを取り込もうとして、食指を伸ばす。例えば、20世紀におけるジャズや各時代における民謡の類がそうだ。作曲家たちは、新たな音楽表現手法をすぐに研究し始めて、自分の音楽に取り込んでしまう。そうして、まるで自分たちの音楽であるかのように作品を仕立て上げてしまうのだ。ラヴェルのピアノ協奏曲然り、ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』然り、である。

古典派におけるトルコ音楽の吸収もその代表的な一例だ。当時ヨーロッパに侵攻をしていたオスマン・トルコ軍が持ち込んだ音楽に、古典派の作曲家たちは魅了されたのだ。そうして好奇心の旺盛な彼らは自分たちの音楽にそれを取り入れ始めた。一番有名なのは、モーツァルトの『後宮からの誘拐(逃走)』だろうか。ストーリーが思い切りトルコを舞台にしているし、あのドンチャン、ドンチャン鳴るトルコ風の序曲の響きも強烈だ。とは言え、トルコ音楽に影響を受けた多くの音楽は、それほど聴き継がれることを念頭に置かれていなかった「古典派」の音楽だから、大抵は長い時間の間に風化した。

しかし、そんな楽しい音楽史を放っておく手はない!!と言うわけで…こんな(↓)CDを買ってみた。

『オリエントの夢』 コンチェルト・ケルン&サラバンド

コンチェルト・ケルンのアルヒーフ移籍第1弾として発売された企画もののCDである。古典派のスペシャリスト、コンチェルト・ケルンとトルコ音楽のスペシャリスト、サラバンドがタッグを組んで、18世紀後半のヨーロッパにおけるトルコ音楽ブームを再現した1枚。内容は、トルコ音楽から影響を受けた古典派の曲とトルコ音楽そのものをほぼ交互に収録したものになっている。

最初は、幻想的なトルコ音楽でスタートするが、2曲目に『後宮からの逃走』序曲が入り、賑やかになっていく。異国情緒あふれるエキゾチックな響きと屈託のない古典派の音楽が「楽しい音楽の時間」を作り上げていく。コンチェルト・ケルンの演奏も小気味が良い。

さて、ここで登場する作曲家…まず、モーツァルト、グルック御大、J.M.クラウス、そして、最後を締めくくるのがSussmayrのトルコ風シンフォニアである。Sussmayr…一瞬、だれ?って思った。Franz Xaver Sussmayr…ははは、ジュスマイアーじゃんね。モーツァルトのレクイエムの補作だけで有名な人。天才に依存する悲し過ぎる一発屋。レオポルド・モーツァルト、サリエリ等、モーツァルトがいたからこそ、後世に名前を残せた人の一人。モーツァルトの才能は自身だけじゃなくて、他人をも後世に名前を残してしまったのだ…。偉大なり。

で、このトルコ風シンフォニアが面白いのだ。もう娯楽に徹していて、とにかく楽しい。他の3人の音楽と比べると、まぁ、凡庸な才能だったのだろうが、トルコっぽさでは、誰にも負けていない。トルコの打楽器なんかも入っちゃって、なんともご機嫌な音楽である。モーツァルトのレクイエムを補作した人だと思うと、なんだか、がっかりしてしまう(笑)。おいらは、アンチ・ジュスマイヤー派になる(ウソ)。まぁ、なにはともあれ、前から聴いてみたかったジュスマイヤーの音楽が聴けて、思わぬ収穫だった。

…ところで、東洋っつうと、日本こそ究極の東洋だよなぁ。いや、だから、なにってわけじゃないけど、トルコが東洋か!!と…ぬるいな(笑)

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最近のこのblogときたら、ルネサンスとか古典派とか(まぁ、時々、マーラーがあったとは言え)一般受けしそうにないものばかりだった。反省するべきである。クラシック音楽のブログと言えば…そうだ、もっとロマン派に力を入れなければならない!(偏見)

と言うわけで、今日は、ジョルジュ・オンスロウの交響曲を…。恥ずかしながら最近まで聴いたことのない作曲家だったのだけれども、古典派からロマン派に移るにあたり、そこそこ重要な作曲家のようだ。ベートーヴェン同様、初期の頃は古典派に片足を突っ込んでいたようだが、結局はロマン派の旗手的な存在となった。ベートーヴェンやシューベルトに似通った響きを持っているが、その名が示す通り、フランスの作曲家である。故に正確にドイツ・ロマン派とは言えない。しかし、グランド・オペラとサロン音楽全盛のパリでは、ウケは良くなくって、結局、ドイツで評価されている。“フランスのベートーヴェン”なんて呼び方があるように、正確にドイツ・ロマン派ではなくとも、彼の音楽を聴くにあたっては、ドイツ・ロマン派を聴くつもりでいればいい。もちろん、フランス音楽にありがちなエスプリってやつはどこにもない。

さて、交響曲だが、全部で4曲残している(多分)。現在、容易に手に入るのは、CPOから出ているゴリツキ&北ドイツ放送ハノーファー・フィルハーモニーぐらいだろう。で、おいらもそいつを聴いている。

おいらは、半分古典派くらいのつもりで聴いたんだが、そう言う心構えだとちょっと驚かされる。知悉していたと思い込んでいた近所に、隠れた名店があった…てな、驚き。ロマン派最初期と言えば、ベートーヴェンとシューベルトで語りつくされちゃいそうな時代であり、それで満足してしまっているおいらだが、見事に「んなわけねぇだろ」と突っ込みをいれられた感じだ。これが、スウェーデンとかなら、「うわっ!マニアックだなぁ」で終わるんだけど(とりあえず、ベルワルドには謝ろう)、ヨーロッパのど真ん中だと驚いちゃうんだ。未熟者なり、おいら。

4曲たらーっと流して聴いているんだが、これはもう、古典派の響きではない。見事にロマン派の響きだ。予定調和的な没個性をよしとする無難で居心地のいい音楽ではない。ドラマティックであり、他人と同じであることを良しとしない音楽だ。こういう音楽は貴族や富裕商人は好みそうにない。短調の曲も4曲中、2曲もある。中でも、2番の第1楽章の激情の渦巻く、ドラマティックな表現を聴けば、ロマン派の夜明けと暮れ行く古典派を実感することができるだろう。

上にベートーヴェンやシューベルトに近い響きのあると書いたが、正確にはベートーヴェンよりもシューベルトに近いと思うのだ。流麗な歌心なんかは、ちょっとベートーヴェン離れしている(ちなみに、おいらが聴いていてふと思い出したのは、シューベルトの交響曲第4番)。もしこの曲が、なんかの間違いでシューベルトの交響曲ってことになっていたら、今頃、大量のCDが出ていたろうに!ってほど、酷似はしていないけど(笑)。ドイツで評価されたとはいえ、フランスの作曲家なのだから、フランスの音楽家をはじめとして、も少し録音を出してもらえれば聴き比べができておもしろいんだけどなぁ。こういう珍曲の類は、誰かがやってしまうと、なかなか次の録音が出ないんだよねぇ。「初録音の快挙を逃した…。2番煎じはいやだ」となるんだろうか。

次は、オンスロウの残した作品の多くを占める室内楽を聴いてみたい。


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少し前にギーレンのマーラーの交響曲全集を買った。何でって?安かったから。タワーレコードで13枚組4,000円弱。1枚当たり300円ちょっと。馬鹿みたいに安い。ギーレンに申し訳なくなってくる。とか言いながら、以前石丸で5,000円ちょいで出ていた時は、買わなかったんだよなぁ。おいらにとっては、4,000円弱がこの偉業に対する評価ってことなのか。ひどいやつだ…(汗)。ちなみに、アバドに続いて、マーラーの交響曲全集は2つ目。各曲はパラパラと持っていて、6番だけがやけに多くって10種類以上ある。

で、さて、ギーレンのマーラー。まだ少ししか聴いていないんだが、これ、良いんじゃないか。安いのに。ギーレンって言うとゲンダイ音楽のスペシャリストなわけで、なんかこう、冷徹に曲を解剖してさめざめと聴衆に提示してきそうな、白けた印象がある。だけどそれは偏見。モーツァルトだってそんなことはなかった。

確かに、冷静で分析的な一面があるけれども、冷めているわけではない。オーケストラは指揮者同様現代音楽のスペシャリスト南西ドイツ放送響。だからにして、少し堅いと言うか、冷たい感じのするサウンドだけれども、歌うところは確り歌ってくれて、これがなんとも美しい。透明感のある歌心とでも言えばいいのだろうか。重厚に鳴っているし、全体的に引き締まった印象も強い。癖になりそうなサウンドだ。暫くは、マーラーを聴くときのスタンダードはこの全集にしようと思う。録音も鮮明で素晴らしいと思う。

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昨日紹介した、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書/1995年)によれば、ルネサンス音楽はそれまでの音楽とは、次のような違いがあると言う。

「「生きていていいのだ、生きて美しい音楽を楽しんでいいのだ」という安心感―これがルネサンス音楽の特徴である。実際、ルネサンスの音楽は、どれも息を呑むほど「美しい」。」(P.34)
「…中世と比べた時のルネサンスの大きな特徴の一つが、大量の「作曲家」の出現である。」(P.42)

要するに、音楽を本格的に楽しみ始めた時代であり、作曲と言う行為が芸術として認識されはじめた時代であると言う。それまでの作曲家は神を讃えるための道具を作る職人的な扱いで、名前が残っている人は、たまたま記録として残っているか、マショーのように自己意識の強い特殊な人だけであった。そう言う意味では、音楽が大きく現代に近付いた時代であったと考えられる。

神への畏れ、神々の響きから音楽が解放された、正に音楽が生まれた時代、それがルネサンスである。そして、この音楽は生まれたて故に、汚れを知らず、極端に無垢である。そのあまりにも純粋な響きは、「息を呑むほど美しい」のだ。その響きは後世のいわゆる「クラシック」では失われてしまっている響きなのだ。クラシックは音楽が大人へと成長した音楽であって、ルネサンスは音楽がまだ純真な子供の心のような音楽、といえるかもしれない。故に、どうにも成長しきった音楽を知っている我々には逆に受け付け難い場合もある。

さて…前振りが長くなったが、ちょっと前に紹介したスティレ・アンティコのCDを更に買った。今日紹介するのは『天上のハーモニー』と題された1枚。イギリス・ルネサンス音楽の大家トーマス・タリスとウィリアム・バードの音楽をおさめたものだ。正にルネサンスならではの美しい音楽を満喫できる1枚と言っていい。タリスの曲は「大司教パーカーのための9つの詩篇」と言う曲で、これはヴォーン・ウィリアムズのタリスの主題による幻想曲の元ネタとなった曲である。この9つの詩篇とバードの曲が交互に収録されている。

タリスの方は、それぞれが大変短い曲で、バードの方が長い曲ばかりである。だから、バードの音楽の方が主体でタリスの音楽が間に挟まっているって感じだ。なんか、こう、それってどうなの?って作り方だけれども、これがなんとも絶妙なのだ。それぞれ単体で演奏されるよりもずっと味わい深くなる。ともすれば、没個性的とも言えるルネサンス音楽だが、こうして並べて演奏されるとそれぞれの良さが浮かび上がってくる。もちろん、今回もスティレ・アンティコの歌唱はやはり素晴らしい。

ルネサンス音楽入門にも良いかもしれない…が、SACD故に高い。harmonia mundiの録音は相変わらず素晴しく、こういう高音質で聴くルネサンス音楽は極上なのだが。


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