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「昔はよかった!」…これ、クラシックの世界でも蔓延している。未だに不滅の巨匠とか、20世紀の遺産だなんて、タイトルの本がちょいちょい出ている。初心者向けお勧めCDみたいなコーナーがあると、大体勧められているのは、カラヤンだったり、バーンスタインだったりする。新しくても、1980年代の録音なんだよね。それで、そういう録音ばかり聴いていると、若くして、「偉大な巨匠たちの時代」とか言い出すようになってしまう。巨匠時代が懐かしいとか、リアルで殆ど体験していないくせに言い出してしまう。ま、これ、一部自虐なんだけど。

でも、今なんだよね、楽しんでいるのは。音楽を楽しむのに過去に固執して、「昔はよかった!今の音楽は…」なんて悲観しているのはちっとも楽しくない。実際、昔の音楽が優れていて、今の音楽が駄目になっているのなら、しょうがないんだけれども、どう冷静に見てもそういうことはない。ただ、変化はある。その変化を受け入れることが出来る柔軟性があれば、過去の音楽だけでなく今の音楽も楽しむことが出来るわけだ。音楽なんだし、積極的に楽しめる方向で対応していくのが良いと思う。

と言うわけで、新しい人たちの録音を…。アリーナ・イブラギモヴァとウラディーミル・ユロフスキ&エイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団のメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲2曲。ソリストとオーケストラの名称が、覚えにくい。オーケストラの方は、言わずと知れた古楽の名門なんだけど、未だにすらっと言えない。もうOAEでいい。ソリストのほうは、サッカー選手にイブラヒモヴィッチと言うのがいるから、知っている人は、ヴィッチがヴァに変わったと覚えればいい。「ギ」と「ヒ」については、細かいことは気にしない方向で(笑)。サッカー見て、イブラギモヴィッチと言っている人がいたら、たぶん、クラヲタ。要注意。年齢は、イブラギモヴァが20代、ユロフスキが今年で40歳。これからどうなっていくのか楽しみな2人である。

演奏は、オーケストラが古楽の楽団ということからも判るとおり、思い切り、ピリオド奏法を意識したもの。イブラギモヴァは、古楽系の演奏家と言うわけではないが、すでに、古楽器でJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを録音するなど、モダンとピリオドを使い分けている。今回は、ロマン派でも、初期の作曲家と言うことで、ピリオド奏法を取り入れたのだろう。基本的に、おいらはロマン派以降はモダンの演奏を聴いているのだけれども、この演奏は違和感なく聴くことができた。

1曲目は有名なホ短調。例のあれ。通俗名曲の極みのように言われるが、これ、いい曲なんだよね。特に2楽章の美しさは半端ない。イヴラギモヴァのヴァイオリンは凛として美しく、この第2楽章も聞き惚れてしまう。若手の女性と言うと、ハーンの録音を思い出すんだけれども、あのキレキレの演奏とは、まったく違う。ピリオドアプローチと言うこともあり、決して華美ではないのだけれども、瑞々しさも失っていないし、奇を衒わず確りと構えて、じっくりと演奏に取り組んでいる。好演。

フィンガルの洞窟を挟んで、2曲目のヴァイオリン協奏曲は若書きのニ短調。13歳…若書きというか、幼ガキ書きと言ったほうがいい年齢。ホ短調に比べるとマイナーな曲だけれども、これまで録音は選択の余地があるくらいは出ているはず。おいらも聴いたことがない曲じゃないんだけれども、さほど、強い印象のない曲だった。しかし、イブラギモヴァとユロフスキの演奏は、この曲の魅力を存分に引き出してくれた。中一の書いた曲だからって馬鹿にしちゃいけない。弾けるような、それでいて、よく感情のコントロールの出来た素敵な演奏。1楽章での歌心も、2楽章での音色も、3楽章での躍動感も、どれも申し分ない。この演奏なら、この曲、もっと評価されてもいいと思わされてしまう。

と言うわけで、また1人、注目のヴァイオリニストを知ってしまった。チェックするのを忘れてしまいそうだ…。ちなみに、この録音はhyperionからのリリース。あの、マイナー曲を職人的に良い仕事をする人たちの演奏で、紹介し続けていたhyperionである。イブラギモヴァ、たぶん、スター演奏家になると思うんだが…。hyperionっぽくない(笑)。

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あ、もう10月じゃんね!なんて、わざとらしく驚いてみたり。気温も一気に落っこちて、秋真っ盛り。過ごしやすい陽気になったんだけれども、あんなに暑くってうざったかった夏が懐かしかったり、戻りたかったりする理不尽。中二病とは言え、小学生じゃあるまいし、夏にワクワクするのもどうかと思うけど。

さて、秋と言えば、芸術の秋。つっても、堅苦しい偉大な芸術は、ロマン派以降に任せておいて、また、バロックでも聴いて、気軽に秋を楽しもう。

今回は、マリオ・ブルネロ&ラルテ・デラルコによるヴィヴァルディのチェロ協奏曲集。ブルネロは、古楽系のチェリストと言うわけではないけれども、古楽器を担ぎ出して、ラルテ・デラルコを相手に弾きまくってくれた。このCD、輸入盤なんだけれども、ありがたいことに、日本語の解説が付いている。解説と言っても、ほんの1ページで、しかも、作曲の由来とか、演奏者の紹介ではなくて、ブルネロ自身による、ヴィヴァルディのチェロ協奏曲の印象を書いているもの。1曲ごとではなく、1楽章のアレグロ、2楽章のアダージョ、3楽章のアレグロについて、全曲に共通した印象を簡潔に書いている。以下に一部を抜粋して紹介しよう。

1楽章 アレグロ/…略…すべてのアレグロの特徴は、冒頭に聴かれるチェロの開放弦の音色と、ベネチアの魂とも言える、古くから、この土地で歌い継がれてきた童謡、民謡を彷彿とさせるメロディである。…略…

2楽章 アダージョ/ここでは水が音楽の、大切な要素となる。アダージョのリズムは、穏やかな呼吸の中で繰り返されるゴンドラをこぐ動作、「押して、引いて」のオールの動きから生まれる。そのリズムはヴィヴァルディの時代から変わることなく、その呼吸を繰り返す。
アダージョは舟歌、ノスタルジー溢れるセレナーデ、そしてベネチアの哀愁に溢れた瞑想曲である。

3楽章 アレグロ/コンチェルトの3楽章は演劇である。チェリストは裏の路地から飛び出して、早口のベネチア方言をまくしたて、大道芸人、人形劇の登場人物、或いは、奇妙な人物の役割を演じる。…略…

どうだろう?延々とそれぞれの曲に対しての解説をされるよりも、素人には、わかりやすい。なるほど、ヴィヴァルディのアダージョは、ベネチアのゴンドラのゆったりとした流れなのか…その考えに固執する必要もないけれども、ブルネロの演奏を聴くときは、頭の片隅に置いて聴くといいだろう。

で、さて、肝心の演奏なんだが、これが、なんだか、凄いことになっている。おいらが持っている、ヴィヴァルディのチェロ協奏曲集は、コワン&イル・ジャルディーノ・アルモニコ、ケラス&ベルリン古楽アカデミー…あとなんかあったっけな。まぁ、いっか。とにかく、この2種類、楽団の名前を聞いただけでも容易に想像が出来るくらい、尖がっていて刺激的。対して、ブルネロは、尖がっていると言えば尖がっているんだが、その印象よりも、なんか、カオスなのだ。汗臭くて、まったくすんなりと音楽が進まない。チェロが、力強くゴゴゴゴゴゴッと鳴る周りを伴奏がガサガサと騒いでいる。ベネチアと言うより東南アジアの市場のような力強さがある。ケラスもコワンも凄いが、ブルネロは別方向にぶっ飛んでいってしまっている。三者三様なのは当たり前だけど。

アダージョの方は、濃ゆい響きの中に、情緒を盛り込んだ演奏。これは、見事。筆の跡が強調された油絵を眺めているような感じ、とでも言おうか。あのアレグロのあとで、繊細なアダージョを聴かされても困るわけで、こってりとしたヴィヴァルディに纏め上げている。

バックのラルテ・デラルコはホグウッドと組んだ、ヴィヴァルディが手元にあるけれども、いま少しだけ聴きなおしてみると、ブルネロと演奏しているほうが、好き勝手やっていて、弾け切っている。それが正しいかどうかは解らない。ホグウッドのコントロールの仕方も、濃い味わいの中に、爽やかな味わいがあったりして、捨てがたいのだから。

ブルネロ、つい先日、パッパーノ&聖チェチーリア国立音楽院管弦楽団とドヴォルザークのチェロ協奏曲をリリースしたらしいんだけど、興味がわいてしまった。イタリアだらけのドヴォルザークなんて…あ、それだけでも面白そうだけど(笑)。ちなみに、改訂前のオリジナル版での演奏とのこと。買うか…いや…あ、いや、買うか…。

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西洋音楽史は、J.S.バッハから語られることが多い。一部の音楽愛好家たちもそうだし、わが国における学校教育でもそうだ。故に、J.S.バッハは音楽の父と崇め奉られ、ここから西洋音楽が始まったかのような誤解が生じている。もちろん、その前に、「なにか」があったことは、皆なんとなく解っているのだけれども、それは取るに足らないものであり、J.S.バッハが、それまでの音楽を革命的に「芸術」に昇華させたのだと認識してしまっている。たぶんこれは、西洋音楽を評価するに当たってドイツを中心としたロマン派至上主義が、当たり前になってしまっていることに起因するんだと思う。彼ら、ドイツ・ロマン派の作曲家は、イタリアを中心としたそれまでの音楽(バロック、古典派)を否定するに当たり、自分たちのルーツを同じドイツの作曲家であるJ.S.バッハに求め、神格化した。そして、彼こそが音楽の父であり、バロックそのものであると結論付けたのである。

これは、無伴奏ヴァイオリンの音楽でも同じことで、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータが、唯一にして最高の曲であると思われている。確かに、この曲は大変素晴らしい。しかし、いくらJ.S.バッハが凄い作曲家だとしても、唐突にこんな曲が出てきたわけではない。バロック期の作曲家は、ロマン派以降の作曲家に比べると、果敢にも無伴奏ヴァイオリンの曲を書く人が結構いて、それらのひとつがあの大作なのである。ほかの作曲家の作品も、なかなか凄いのだが、残念ながらさほど演奏される機会は多くない。近年、古楽運動が盛んになってようやくバロック・ヴァイオリニストたちが、取り上げるようになり、その存在を知ることが出来るようになってきたのはありがたい限りである。

さて、そんなことを念頭において、つい先日購入した1枚のCDについて書いてみよう。日本におけるバロック・ヴァイオリンの第1人者である寺神戸亮さんによる『シャコンヌへの道』と題したアルバムである。寺神戸亮さんはもともと東京フィルのコンサート・マスターを務めたものの、その後、退団。シギスヴァルト・クイケンの元で研鑽を積み、レザール・フロリサン、コレギウム・ヴォカーレ、ラ・プティット・バンドと言った、有名古楽楽団のメンバーとして活躍。更に、ソリストとして、コンサートやレコーディング活動を活発に続けている。

『シャコンヌへの道』は、そのタイトルが示すとおり、J.S.バッハのシャコンヌ(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の例の曲、念為)は1日にして成らず!と言うことを1枚のCDで語ろうと言う企画。

まずは、バルツァーのプレリュード&「ジョン、来て、キスして」によるディヴィジョンからスタート。スコットランド民謡の変奏曲であるこの曲、解説によれば、プレイフォードの「ディヴィジョン・ヴァイオリン」に収められているものとのこと。プレイフォードと言えば、『イングリッシュ・ダンス・マスター(イギリス舞踏指南)』で有名な、楽譜出版者である。楽しく、時にメランコリックな作品の多いプレイフォードの音楽帳だが、このディヴィジョンもその中にすんなり収まりそうな作品だ。ここからシャコンヌへ…え?って感じだけど、この意外性は面白い。

続いて、ヴェストホフの無伴奏ヴァイオリンのための組曲第1番。ヴェストホフは、ドレスデンを中心に活躍したヴァイオリニストでビーバーとも並び賞されるほどの名手だったらしい。無伴奏ヴァイオリンのための組曲は6曲あって、そのうちの第1番がこのアルバムに収められている。J.S.バッハの作品に比べると、やや地味に感じられるが、ヴァイオリンの名手の作品だけあって、高い技術の求められる作品である。さらに、この6つの組曲は何れも、5線譜ではなく、8本の線によって、記譜されている。いろんな意味で、まだまだ自由だったバロックを感じさせるものだ。故にバロックは面白いんだけれども、演奏するほうとしては楽譜を読むだけでも、一苦労しそうである。ちなみに、ヴェストホフがドレスデンの宮廷楽団で活躍した時期とJ.S.バッハがヴァイマールで宮廷楽士をしていた時期が重なっていることから、この6つの組曲はJ.S.バッハの作品に少なからぬ影響を与えたのではないかと言われている。

お次、ビーバーのロザリオ・ソナタからパッサカリア。前にも出てきたが、ビーバーはバロック期における最も有名なヴァイオリンの名手である。中でも、ロザリオ・ソナタは有名な作品で、古楽運動が盛んになってから、バロック・ヴァイオリニストたちが盛んに取り上げるようになった。モダン楽器では、殆ど見向きもされていなかった作品かもだけど…ありがたいこってて。その名の示すとおり、ロザリオ信仰にちなんで作曲されたもので、15の秘跡に沿って曲は進められていく。パッサカリアは16曲目、つまり番外編である。この曲だけ無伴奏ヴァイオリンで奏でられる。なんというか、ざっくりな感想で申し訳ないが、とてつもなく美しい曲である。よし!決めた。今決めた。この曲を演奏することを最終目標にヴァイオリンのレッスンをすることにしよう(無謀)。個人的なことは置いといて…たぶん、バロックの無伴奏ヴァイオリンのための作品としては、J.S.バッハの作品に次いで演奏される機会の多い作品。寺神戸さんのライナーノートによるとJ.S.バッハの作品にも影響を及ぼしている可能性があるとか…。

続いて、テレマンの無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジアより第1番と第7番。テレマンについては、まぁ、いいだろう。ヴァイオリンの作品に限らず、バロック期における最も有名な作曲家の1人。J.S.バッハと同時代の作曲家にして、大の仲良し。当時は、J.S.バッハよりもテレマンの方が人気があったと言う。そんなわけで、無伴奏ヴァイオリンのためのファンタジアは『シャコンヌの道』には欠かせない作品。全部で12曲あって、寺神戸さんは、後に全曲を録音している。テレマンらしい小難しくなく、親しみやすい曲調が魅力的な作品だ。12曲、CDにして2枚分だが、あっという間に聴けてしまう。うん、時間の無駄と言う意味ではない…よ…っと。

シャコンヌの前の最後の曲は、ピゼンデルの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ。ピゼンデルは、ヴェストホフと同じくドレスデンの宮廷で活躍したヴァイオリニストである。この人も名手として知られており、ヴィヴァルディやテレマンから曲を献呈されるほどであったと言う。J.S.バッハとも交流があり、ピゼンデルのために無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを作曲したのではないかと言う説もあるほどである。作曲するに当たっても、ピゼンデルの影響は指摘されており、この無伴奏ヴァイオリンのためのソナタは、J.S.バッハの参考になったのではないかと考えられている。当然ながら、この作品も技術的には非常に難しい。派手さはあまりないが、劇的で内容の濃い作品だ。

そして、最後。シャコンヌ。それと、おまけで無伴奏チェロ組曲第6番よりガヴォットを無伴奏ヴァイオリン用に編曲して収録してある。デザートみたいなもの。ちょっとホッとする。これを最後にもってくるのって、反則じゃないか?ってくらい綺麗に決まっている。

と以上のようなプログラムなんだが、もちろん、これはJ.S.バッハ以前の無伴奏ヴァイオリンのための作品の一部であって、ほかにもたくさんの作品がバロックにはある。宝の山。寺神戸さんはその中から、見事なプログラミングで、意欲的なアルバムを作ってくれたわけだ。実に綺麗に、シャコンヌまでの道筋が見えてくる。サヴァールなんかが、好きそうな企画物だけれども、日本人でもこれだけのことができるのだと。演奏も見事な表現力で素晴らしい仕上がりだ。この演奏力があっての、この企画だと思う。マスコミが騒ぎ立てるだけのクラシックじゃなくて、こういう本当に良い仕事をしている人と言うのは、いち音楽ファンとしては、最大限の敬意を払って、出来る限り応援させていただきたいと思う。

なお、このCD、今なら国内盤で1,050円!寺神戸さんの解説も付いている(この記事を書くにあたっても参考にした)。J.S.バッハから一歩踏み出して無伴奏ヴァイオリンの演奏に興味がある人は必携。


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PCは無事復活。しかし、経済的ダメージがががががががが、がっ!Cドライブは、SSDにしてみた。256GBで15,000円。ハードディスクは、3TB×2を新調。これまでの1TBと2TBを足すと9TB以上になる。まぁ、しかし、実際に使えるのは、8TBくらいなもの。写真の容量が大きくなっていること(JPGとRAWで保存すると1枚20~25MBになる)、音楽データが多いこと、そしてそれらのバックアップと考えると、別に大きすぎる容量ではない。ハードディスクは、半分くらいは空けておきたいし。データ化社会の申し子のような状況だ。やむなし。

さて、話題転換。ちょっと寂しいお話。シュトゥットガルト放送交響楽団と南西ドイツ放送交響楽団が合併するそうだ。HMV Onlineのベルリン・フィル・ラウンジによれば、これは検討事項ではなく決定事項とのことだ。南西ドイツ放送響の方は、頭にバーデンバーデン&フライブルクと付いているので、3都市で1つの楽団ということになるのか。以前から両楽団に親しんでいる多くのクラシック・ファンは、ちょっとした驚きと複雑な想いを持たずにはいられないだろう。ドイツの放送オーケストラの多くは戦後に誕生したが、その後の本格的なレコーディング文化の中で、この両楽団の果たした役割は少なからぬものがある。

で、なぜ、合併となったのか。そもそも、シュトゥットガルト放送交響楽団は、旧称が南ドイツ放送交響楽団だったことからも判るとおり、南ドイツ放送局(SDR)の楽団だった。対して、南西ドイツ放送交響楽団は、南西ドイツ放送局(SWF)の楽団だった。それが、1998年に放送局の改組があり、SDRとSWFが合併されSWR(和訳は、南西ドイツ放送局)が発足した。この結果、SWR内には、両楽団に加えて、カイザースラウテルンSWR放送管弦楽団の3つのオーケストラを抱えることとなってしまった。カイザースラウテルンSWR放送管弦楽団は、2007年にザールブリュッケン放送交響楽団に合併されたものの、それでも、2つの世界的な楽団が並存する状態に議論があった。それに答えを出したのが、今回の合併と言うこと。

前述のベルリン・フィル・ラウンジによれば、戦後ドイツでこのクラスの楽団の合併は、初めてのことらしい。かと言って、事情が事情なだけに、今後ドイツ全土でこうした動きが広まるということはないだろう…と思いたい。なお、新楽団の発足は2016年だそうだ。残念ではあるが、よりいっそう魅力的な楽団になってくれれば嬉しい限りだ。

そんなわけで、今日は、南西ドイツ放送響の録音を。フランチェスカッティとブールによるブラームスのヴァイオリン協奏曲とセレナーデ第2番を収めた1枚。つい先日、独hansslerからリリースされたヒストリカル・ライヴ。協奏曲は、1974年、セレナーデは1978年の録音。ありがたいステレオ録音でのリリース。

前段に、いろいろ書いておきながらなんだけど…目的は、やっぱフランチェスカッティ(汗)。1974年と言えば、フランチェスカッティの活動の最後のほうであり、ややピークは過ぎた頃の録音と見られても止むを得まい。しかし、さすがに、美音は健在。明るく、伸びやかに歌いまくる。この音を聴いているだけで幸せな気持ちになれる。ブールと南西ドイツ放送響のコンビは実ははじめて聴く。情報だけでは、どうしても現代音楽のスペシャリストと言う印象が強いが、ここでは実に手堅い演奏を聴かせてくれる。無駄に自己主張してこないので、フランチェスカッティの美音をたっぷりと味わうことができる。録音は、若干こもる感じがするが、鑑賞するのに問題ないくらい。良好と言っていいだろう。フランチェスカッティのブラームスの協奏曲は、3種類目だが、総合的に見て、これが一番好みのもの。セレナーデの2番も良い。安いし、お薦め。

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うむぅ…HDDがぶっ飛んだ。恐るべし、データ依存の脆弱振り。ぶっ飛んでくれたのは、音楽データの入っている1.5TB。うっわ…音楽聴けねぇ…と、まぁ、幸いにして、ほぼバックアップがあるので被害は最小限に食い止められているんだけれども、最近、買って入れておいた20枚程度分等やり直しとなった。

ついでに、ほかのHDDも調べてみると、Cドライブの500GBのHDDがやばめ。Cかよ…。本格的に修復が必要じゃないか。メンドクサイめんどくさいメンドクサイめんどくさいメンドクサイめんどくさいメンドクサイーーーーーーーッ!!この際、CドライブはSSDなのか?そうなんだろうなぁ。それと外付けでほとんど使っていなかった2TBが完全に異常だった。5台中、3台が壊れているとか…思いやり、優しさが足りなかったのか…。まぁ、HDDなんて壊れやすいもんだしね。しゃーなしと言えば、しゃーなしだ。

ま、と言うわけで、出費。Cドライブは、SSDとして、容量によるけど10,000円~15,000円見ておこうか。ほか、2台。今は、3TBが一番コストパフォーマンスがいいらしいから、これを2台。さっくり調べてみると10,000円と言ったところ。全部で35,000円と言ったところか。ヘビーだな。

落ち着こうか。と言うわけで、J.S.バッハの管弦楽組曲。つっても、ゲーベルで吹っ飛びたい気分ではないので、ちょっと前に買ったクレンペラーの演奏で。スローペースにして、雄大。有無を言わせない風格。時代考証の結果、こうなりました…と言うお話は、クレンペラーには通じそうにない。俺がこうと言ったらこうなんだと言う、独裁者的な暴論で片付いてしまいそう(笑)。しかも、それでもみんな納得してしまいそうな、妙な説得力。古いバロック観なんだけれども、それ以上に、クレンペラーなんだよなぁ。変人だけど偉大なり。

あー、クレンペラーに浸りつつ、PC修復作業が手間取ったら音楽聴けないなぁとか…。まぁ、CDから聴けばいいんだけどね。

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ケッヘルと言えば、モーツァルトの作品番号で有名な人。そして、ケッヘル○○番と言えば、モーツァルトの作品のことである。モーツァルト自身は知らないことだけれども、クラヲタならずとも、ある程度、モーツァルトを知っている人ならば、「常識でしょ?」と言うレベルだと思う。

しかし、ケッヘル番号を使う人が、もう一人いるのだ。ヨハン・ヨゼフ・フックスである。モーツァルトと同じくオーストリア出身の作曲家である。1660年ころ、グラーツを州都とするシュタイアーマルク州のヒルテンフェルトの農家の家に生まれ、カール6世の宮廷楽長にまで登り詰めた当時の大物である。長きにわたって皇帝の信頼を得、オペラやオラトリオをはじめ、あらゆるジャンルの作品を数多く残し、没後は生前の名声に反し、あっという間に忘れ去られた。典型的なバロックの作曲家である。特に、“あっという間に忘れ去られた”という点は、あまりにもバロック(汗)。ケッヘルはこの人の研究も行っており、その作品は、ケッヘル○○番で整理されている。と言うわけで、ケッヘル○○番と言われたら、「誰の?」とちゃんと聞き返すようにしよう(笑)。

さて、このフックス楽長のCDをちょっと前にはじめて買ったので、紹介しておこう。グナール・レツボール&アルス・アンティクァ・オーストリアによるパルティータ集である。レツボールはオーストリアとその周辺のバロック音楽の紹介に力を入れているバロック・ヴァイオリニスト。アルス・アンティクァ・オーストリアは、レツボールが結成したバロック・アンサンブルである。シンフォニアやチャレンジ・クラシックにあまり知られていない作曲家の作品を録音して、高い評価を得ているコンビ。

パルティータ集…ってなんの?って感じだが、ジャケットの写真がレツボールであることからも判るとおり、バイオリンを主役においた作品集である。オペラをガツガツ作曲していた宮廷作曲家が、こういう編成の曲を書いていたことは意外な感じがする。しかも、抒情的、かつ、技巧的な曲だったりする。え?何気に凄い曲じゃんか、と思ってしまったら、レツボールの術中にめでたくはまったと言うこと。もっとオーストリア・バロックを聴いてみたいと思ったら、レツボールとしては、してやったりと言ったところだろう。

もちろん、そうなるには演奏がよくなくてはいけないんだが、レツボールとアルス・アンティクァ・オーストリアの演奏は、なかなか素晴らしい。レツボールの音色は、バロック・ヴァイオリニストにありがちな、尖っている感じじゃなくて、土俗的と言うか、人間臭いと言うか、そう言う印象を受ける。んで、技巧的で早い部分は軽くぶっ飛ばしてくれる。この辺はさすが、近頃のバロック・バイオリニスト。全体的に、フックスの持っている抒情性を表現力豊かに演奏してくれている。珍しい作品をこのレベルで演奏してくれるとは有り難い限りだ。

良い曲、良い演奏。タワーレコードのワゴンセールで見つけたんだけどね(汗)。売れるようなもんじゃないでしょうなぁ。

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ピアノと言う楽器は、クラシックを聴かない人には、まるでクラシックを代表する楽器のように思われていることがある。あれはなんなんだろう?確かに、音楽を習う人にとっては、基本的な楽器なんだけれども、オーケストラに入っているわけでもないし、オペラに入っているわけでもない。時代的に言えば、古典派以降に登場した楽器だから、バロック以前の音楽ではアレンジもの以外では、無縁の存在である。そんなだから、レパートリー的には、出番はヴァイオリン、チェロには及ばない。リスナーとしてのおいらにとっては、ピアノは、あくまでも数ある楽器の一つだ。妙なショパン人気がピアノ=クラシックをイメージ付けているのだろうか。

で。好きか?嫌いか?と言われると、別にそう言うのはない。ピアノの音色を活かした素敵な曲も多いと思っている。しかし、ショパンはあまり好んで聴かない。おいらごときが、ショパンのような偉大な音楽家を批判するわけにはいかないが、なんか、心に入ってこないんだよね。華麗で盛り上がるし、すげぇと思うんだけれども、どこか虚ろに感じてしまう。たぶん、これは相性の問題。まぁ、いつか、好きになる日が来るかもしれない。

で、どの曲が好きなのか。あまり、ピアノのCDを積極的に買っていないのだが、シューマンの『謝肉祭』は好きな曲である。作曲家が好きな人の名前の綴りだか、イニシャルだかを、楽譜に織り込んだと言う、お洒落なのか、きm(略)いのか、判らない小技を駆使している。それは兎も角として、各曲の可愛らしさは格別だ。

今まで聴いていたのは、ミケランジェリのもの。ドイツ・グラモフォンの旧盤も、EMIの新盤もあるが、よく聴くのは後者。ミケランジェリのお陰で好きになったようなものだが、ほかの演奏も聴いてみたくいて、有名どころの演奏家の録音による数枚の同曲異盤を持っている。

しかし、最近の人のものを持っていない。これは良くない!と言うわけでもないんだけれども、ネルソン・フレイレの録音が、若干安めで出ていたので買ってみた。まぁ、何だ、現役とは言え、「最近の人」と言うには、ちょっと大御所過ぎるだろうか。

演奏は、とても素晴らしい。兎に角、このクラシックと言うジャンルでは(でも)、過去崇拝ってのはすごくって、素晴らしい演奏はすべて過去のものだと言う風潮があるけど、そんなわけがあるはずもなくって、フレイレも現在素晴らしい演奏をしているのだ。とにかく、音が綺麗だし、表情も豊か。テンポは揺れるんだが、それが心地よく決まる。力強くもあって、聴き手を飲み込んでしまう。このCDに収められているのは、3度目の録音だと言うから、フレイレにとっても十八番の曲なんだろう。この演奏が、円熟と言うのならば、若いころはどんな演奏をしていたのか。ちょっと気になるところ。

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HMV Onlineにお気に入りリストと言う機能がある。買おうかどうか迷っているソフトを取り敢えず放り込んでおくもの。購入が決定したら、カートに入れてポチッとすればよい。このお気に入りリストに200以上のソフトが入っている。どんだけ迷っているんだか…(汗)。古いやつは改めて見てみると、さほど興の湧くもんじゃないんだが、一度、気になったCDだけに簡単に消し難いのだ。ものによっては、もう廃盤になってしまったりして…これはもう消すべきなんだろうけど、ひょっこり復活したりするので、やっぱりほっといてしまう。弊害がないのなら、別にいいんだけどね。

先日、ここにしばらく置いてあって、遂に、カートに移動したCDが届いた。ずーっと欲しいままだったCDなんだが、入荷までの日数が、大変なことになっていたので、購入に踏み切れなかった。それがひょっこり見てみると、在庫ありになっていたので、試しにカートに移してみたのだ。“試しに”と言うのは、HMVの“在庫あり”表示は当てにならないと言うこと。検索結果表示→お気に入りリストまでは、“在庫あり 24時間以内に出荷”になっていても、いざカートに移すと、“入荷まで○○日”と変化する。だから、今回も“試しに”カートに移してみたのだが、“在庫あり”のままだったので、そのままポチッとなった。

で、それが何かと言うと、ゲーベル&ムジカ・アンティクヮ・ケルンによるフルート四重奏曲集。2004年の録音だが、2007年に30余年にわたる活動を休止したムジカ・アンティクヮ・ケルンの最後の録音である。

フルートと言うと、今や、金管楽器になってしまったあのフルートを思い浮かべるんだけれども、ここで言うフルートは、ちょっと違う。縦笛のリコーダー(ブロック・フレーテ)、若しくは、フラウト・トラヴェルソである。フラウト・トラヴェルソのトラヴェルソはフランス語で、「横向きの」と言う意味なので、現在のあのフルートにかたちは似ている(と言うか、原型)。リコーダーは、あの小中学校で使うもののまんまである。当然プラスチック製ではなくって、木製。フラウト・トラヴェルソも木製。現在のフルートが木管楽器と言われる由縁である。

と言うわけでここで言うフルートは、ざっくり笛と言う意味。オーボエも登場する。そして、四重奏である。と言っても、ロマン派以降における、四重奏曲とは、ちょっと違う。ロマン派の作品で、協奏曲を聴く時と四重奏曲を聴く時は、まったく異なった編成の音楽を聴く覚悟が必要だが、バロックでは同じようなノリで聴いても問題ない。ちょっと編成が小さいぐらいに思っておけばいい(厳密に言えば色々あるだろうけど)。特に、時代考証がなされた古楽器での演奏では問題ない(適当過ぎるか…)。

CDの内容は、「もっと早く買っておけばよかった」と後悔させられるもの。曲も演奏も素晴らしい。ゲーベルのテンポの良い演奏が、テレマンの音符を切り裂いていく。フルート四重奏曲と言っても、フルートはさほど主役を担っているわけではなくって、激しい合奏の合間を揉まれるように流されていく。木管楽器のフルートたちの温もりのある響きも魅力的だし、ベテラン古楽奏者たちを相手に、若い奏者たちも大健闘している。そんな演奏が、カッコ良かったり、美しかったり。テレマンの音楽って、演奏によっては、とても退屈になると思うんだけど、こう言う音楽を聴くと、放っておくにはもったいない作曲家だなと思う。当時は、J.S.バッハよりも人気があったらしいんだけれども、今では、評価は真逆。古楽運動の中で大分、録音も揃ってきたし、再評価されていると思うんだけど、もっと聴かれてもいいんじゃないかと思う。

まぁ、そんな作曲家はたくさんいて、全てが「もっと聴かれる」状態になることはあり得ないんだけれども(汗)。

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13世紀、日本では鎌倉時代、西洋音楽史的には、ルネサンス音楽の登場までに100~200年もの長い長い年月を待たねばならない中世音楽の時代。この時代の世俗的な詩集が、ドイツ南部バイエルン州のボイレン修道院から見つかった。1803年のことである。この詩集には、ネウマ譜によるメロディが付されている詩がいくつかあり、20世紀後半、その復元に古楽演奏家が挑戦した。中でも知られているのが、ルネ・クレマンチッチとクレマンチッチ・コンソートによる録音だろう。活き活きとしたリズムの中に、古の時代の若者たちの怒りや欲望が混沌と渦巻いている様は、人間臭くて生命感に溢れている。

で、この詩集をもとに、20世紀の作曲家、カール・オルフがカンタータに仕上げた。ま、これの方が有名だし、いちいち語るほどもない名曲だろう。1曲目と終曲の「おお、運命の女神よ!」は様々な場面、例えば、格闘家や野球選手の登場シーンなんかでも使われているので、多くの人に知られている。録音も多くって、古くはヨッフム盤が、最近のものでは、プレヴィン盤が名盤として知られている(のかな?)。ドロドロとしたリズムとメロディが躍動する、不気味テイスト満載の曲だと思うんだけれども、プレヴィンは随分とすっきりとした新しいタイプのカルミナ・ブラーナを聴かせてくれた。

名曲だけあって、プレヴィン以降もハーディング、ラトル、ティーレマン等、有名演奏家がCDをリリースしている。どれも評価は高い。イメージ的には、ドゥダメルなんかも録音しそうだ。

さて、そんな新しいカルミナ・ブラーナにもう1つユニークな新盤が加わった。クリスチャン・ヤルヴィ&MDR交響楽団がソニーに録音したもの。クリスチャン・ヤルヴィは、以前もこのブログで紹介したことがあるけど、ネーメの次男、パーヴォの弟。ビッグネーム2人のプレッシャーは…全く感じさせない独自の活動に好感が持てる。MDR交響楽団は、中央ドイツ放送交響楽団のこと(はず!)。昔は…東ドイツ時代は、ライプツィヒ放送交響楽団と名乗っていた楽団。ケーゲルとかシェルヘンとかアーベントロートとか…古い録音に詳しい人ならお馴染みの楽団だろう。クリスチャンは、今シーズンからこのオーケストラのシェフに就任。ライプツィヒのもう一つのオーケストラに期待が集まっている。

カルミナ・ブラーナの録音は、就任の前に録音されたものだが、就任披露コンサートでもこの曲が披露されると言う。クリスチャンの指揮は、無駄な贅肉が落ちたような筋肉質の演奏だ。ドロドロした不気味成分は、控え目。スマートで先鋭的。一つ一つの楽器が確り聴こえてきて、グチャグチャしないすっきりした演奏だ。現代的。1970年代には、絶対演奏されないタイプの演奏だ。「天秤棒に心を掛けて」でのソプラノの独唱も十分に美しい。Venus!Venus!と叫びながら、終曲に突っ込めば、テンションも上がろうと言うもの。

ヤルヴィ(次男)、今後も、新譜のリリースが楽しみな指揮者だ。もっと名門楽団との共演も聴いてみたいけれども、やりたいことがやれるオーケストラで好き勝手しているのも、悪くない。自己が確立される前に、有名楽団の指揮台に上がり過ぎると実力はあっても、案外、無難なところに収まってしまう可能性がある。ハイティンクなんか、コンセルトヘボウの呪縛が解けたのは、1980年代も後半になってからじゃないだろうか。そう言う意味では、有名どころを振りまくっているドゥダメルがちょっと心配。

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無伴奏と言う言葉には、妙な魅力がある。例えば、ピアノやギター(またはリュート)の作品に無伴奏と言う言葉が付くだろうか。英語ではSoloと表記されるんだけれども、Sonata for Solo Pianoと表記されることはない。ところが、J.S.バッハのあの有名な曲は、英語でSonatas and Partitas for Solo Violin、日本語で無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータだ。寡聞ながらSoloも無伴奏もヴァイオリンとチェロでしか使っているのを見たことがない。何故に、敢えて、Soloなのか、無伴奏なのか。多くの場合、ヴァイオリンもチェロも何かしら伴奏が付く。オーケストラであったり、ピアノであったり、ギターであったり。4つの弦だけでは、複雑な音楽を奏でるのは難しい。だから伴奏が付く。

この辺までは、色んな本の受け売り込みの話。で、なんで、魅力を感じるか。難しい、が、無理ではないからだ。J.S.バッハのヴァイオリンとチェロの無伴奏曲はなぜあれほどまでに、人気があるのか。それは、無伴奏だから故である。たった一人、ステージの上に楽器一本を持って現れる奏者。いつもは仲間と騒いでいる奴が、たった一人で音楽に挑む。奏でられる音は、ピアノやギターのソロとは比較にならないほど、孤独を感じさせる。それは凄まじい集中力と技術力を要しながらも、実に純粋な音なのだ。これはヴァイオリン音楽の究極だと思う。

しかし、クラシック音楽とほぼ≒になるであろう、ロマン派の時代においては、無伴奏ヴァイオリン、チェロの作品はほとんど作曲されることはなかった。ヴァイオリンは音楽の中心でありながら、無伴奏では魅力のない楽器とされていたのだろうか。それとも、J.S.バッハに挑む気にならなかったのだろうか(もちろん、J.S.バッハの作品の完成度の高さは神懸かっているけれども)。お陰で、ほかには、イザイやパガニーニの作品が多少知られているだけで、すっかり、特殊な存在となってしまった。

求めてもなかなかない。でも、凄い。だから、以前紹介したオノフリの『バロック・ヴァイオリンの奥義』のような企画は、ハングリーなクラヲタの心を打つのだ。挑むヴァイオリニストも相当の覚悟と自信がないといけない。特に、J.S.バッハの作品のように、多くのヴァイオリニストが演奏しているわけではないから、その挑戦は称賛に値する。

さて、ほかに誰かこう言うことをやっていないものか。探す気にもならなかったのだが、秋葉原のタワーレコードを歩いていたら、たまたま、1枚のCDを見つけることができた。タルティーニのThe Devil's Sonata and other worksと言うもの。悪魔のトリルを含む無伴奏ヴァイオリン作品集。アンドルー・マンゼがハルモニア・ムンディ・フランスに録音したもの。1997年の録音。名盤らしいけれども、おいらは知らなかった(汗)。マンゼと言えば、イングリッシュ・コンサートのコンマスで、ピノック退任後、音楽監督になった人物。バロック・ヴァイオリン奏者の大物中の大物だ。無謀に挑戦するには十分な実力者。

高度な技術を要することで有名な悪魔のトリルだが、これ、無伴奏じゃない…はず。だが!やってしまうのだ、無伴奏で。唖然とするしかない。もの凄い気迫と痛快なまでのテクニック。強靭で確信に満ちた快刀乱麻。ヴァイオリンの可能性ってこんなに深いものなのか。音色も魅力的だ。確かに、モダン楽器のような豊潤な色気はないが、なんとも言えない美しさがある。最近の古楽器は、「古楽器だから美しくないのはしょうがない」が通らなくなってきているが、マンゼはその先駆けかもしれない。美しくエキサイティングで、挑戦的なのだ。

続く運弓法(コレッリの作品5からのガヴォットによる50の変奏曲)は、10曲を抜粋したもの。こちらも素晴らしい。フランチェスカッティが、オーケストラをバックに演奏したもの(4分ほどに編曲)があって、これはこれで大変、魅力的な演奏なのだが、無伴奏ならではの孤独感がない。バロックの作品をロマン派の常識で仕立て上げるのは、そう言う時代だから故、やむを得なかったのだろうけれども、もったいない。ちなみに、これは無伴奏のための曲。マンゼの最初は切々とした演奏は、どんどんと複雑化していく。雄弁で心地よい。

あとは、ヴァイオリン・ソナタイ短調とスコルダトゥーラ・ヴァイオリンのためのパストラーレの2曲が収められている。タルティーニとヴァイオリンの妙技をたっぷりと味わえる1枚。本来、無伴奏でないものを無伴奏にしてしまうことは、原作改変であって、時代考証的ではないんじゃないか、それは古楽としてどうなのか、という疑問は、あって当然。だけど、オノフリは、演奏するにあたって「タルティーニは無伴奏で演奏するべきと考えたのではないか」と考証しているし、マンゼも同様のことを考えているかもしれない。それに、古楽って、オーセンティックに凝り固まっているとは思わないんだよね。表現の方法として、時代考証を行っているんだと思う。今回の、無伴奏演奏も違和感がないし、説得力がある。

と言うわけで、良い発見だった。激しくお勧め。ジャケットの悪魔も不気味で雰囲気十分。CDにもプリントされているのが怖いけど(笑)。タルティーニの夢に悪魔が出てきて…で、出来たのが悪魔のトリル、と言う逸話から選んだ絵なんだろうけど、インパクトあり過ぎ。おいらなら、こんなん夢に出てきたらすぐに起きる(笑)。

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