「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙の裡に玩弄するには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、万葉の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい。こんなアレグロを書いた音楽家は、モオツァルトの後にも先きにもない。まるで歌声のように、低音部のない彼の短い生涯を駆け抜ける。彼はあせってもいないし急いでもいない。彼の足どりは正確で健康である。彼は手ぶらで、裸で、余計な重荷を引摺っていないだけだ。彼は悲しんではいない。ただ孤独なだけだ。孤独は、至極当り前な、ありのままの命であり、でっち上げた孤独に伴う嘲笑や皮肉の影さえない。」(小林秀雄『モオツァルト』より)
これは我が国でモーツァルトが評価されるきっかけとなった有名な一文である。
自分はここに出てくる「疾走するかなしみ」と言う言葉をはじめて目にしたとき、モーツァルトを評するのにこれほど簡潔に的を得た言葉はないと思った。短調の曲に限らず、長調の曲でもモーツァルトのかなしみは疾走している。自分はそう思っている。怒涛のように駆け抜ける音楽の中で、モーツァルトはひらりと華麗に舞ったかと思うとふと悲しげな表情を見せる。軽妙で溌剌とした歌の裏に涙を忍ばせる。それは表面上はふざけたような日常生活を送ったモーツァルトの、実は孤独な天才の苦悩だったのだろうか。それにしても、その苦悩の発露は何故これほどまでに美しいのだろうか。
こうした考えに及んだ時、優雅で明朗な貴族音楽と言うモーツァルト観は一変せざるを得ない。確かに、時代が時代だっただけにモーツァルトの音楽は貴族音楽のベールに包まれている。それが、鼻に付き嫌われ、優雅に思われ好かれる。しかし、モーツァルトの真髄は高貴な貴族音楽と言う単なるベールにあろうはずがない。それでは200余年にも亘って絶大な人気を誇ることは不可能である。かと言って、今、科学的に分析されているような理由も、その魅力の小さな一片に過ぎないだろう。それよりも小林秀雄が『モオツァルト』の中で紹介している「モーツァルトの音楽の根底はかなしさである」とするスタンダールの説の方が、その魅力の核心に迫ったものなのである。と言って、モーツァルトの魅力は「かなしみ」の一言に尽きるものでもないけれども。
更に、小林秀雄は『モオツァルト』の冒頭に次のような引用文を掲げている。
「エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみやすく、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。幾時か誰かが成功するかも知れぬという様なことさえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。」
果たして、自分が本当にモーツァルトの音楽の真髄を知っているのかと言えば、それは難しいところだけれども、「かなしみの疾走する」彼の音楽の魅了されていることは確かである。それはゲーテの言うように悪魔にからかわれているのだとしても、取り憑かれてしまったからにはやむを得ないだろう。モーツァルトの魅力の原因を神とか、悪魔のせいにすることは、安易に過ぎるが、実は、凡人である自分にとっては現時点ではそれが最も納得のいく結論かもしれない。
そんなわけで、27日はモーツァルトの250回目の誕生日…でした。
[0回]
PR