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今日は何の話をしようか。そうそう、タワーレコードのオリジナル企画で、ユージン・オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団のラフマニノフの交響曲全集が出たので買ってみた。この企画でオーマンディのソニー録音がまとまって出たので、興味深く見守っていたんだけれども、その中でも、この録音は、注目の1点だと思う。

日本初発売とか、日本初CD化とか言うのは、輸入盤の多いクラシックではさほど意味のあることではないように思うんだが、交響曲全集としてまとまって出たことは、ありがたい。オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団のために作曲された交響的円舞曲が含まれているのもポイントが高い。これまでに輸入盤でこういう形で出たかどうかは知らないけれども、クラヲタが「おっ!」と足を止めて衝動買いしてしまうには十分な魅力を備えている。それに何つったって、本人とも録音を残すほど、ラフマニノフから信頼されていたコンビである。

CDは3枚組みで、1枚目は交響曲第1番とパガニーニの主題による狂詩曲(Pf フィリップ・アントルモン)、2枚目は交響曲第2番とヴォカリーズ(管弦楽版)、3枚目は交響曲第3番と交響的円舞曲となっている。録音は、1958年から1967年の間に行われたステレオ録音。なお、交響曲第2番は全曲版ではなく、オーマンディ曰く、ラフマニノフ本人が認めたカット版で演奏されている。1973年に収録されたRCA盤では全曲版での演奏とのことだけれども、これと比べると本盤は、8分以上短いとのことである(解説書による)。

さて、演奏。とにかく、オーマンディの指揮は、濃厚だ。濃厚なラフマニノフ。要するに甘ったるい。恥ずかしげもなく歌い上げる。フィラデルフィア管弦楽団の豪華絢爛サウンドが歌う、歌う。ラフマニノフも気に入っていたことからも、解るとおり、これこそがラフマニノフなんだろうな。変にキビキビと引き締まった演奏よりも、ラフマニノフは、とことん甘いほうが、おいらも好きだ。ラフマニノフ聴くのに、何を求めているかと言えば、どっぷりとメロディに浸って、盛り上がりたいってこと。深刻なドイツ・ロマン派の魂はここにはなくっていいのだ。と言うことで、オーマンディが正解。

何かと、批判されることが多いオーマンディだけれども、おいらは、オーケストラの魅力を一杯一杯響かせてくれる巨匠だと思っている。特に、ラフマニノフやレスピーギのローマ三部作、ホルストの『惑星』のようなオーケストラ栄えのする曲は、素晴らしい。ドイツものでは確かに、何か物足りないような気がするときもなくはないんだけれども、曲を選べば、名演と呼べる録音は多い。この人が、評価を落としてしまったのは、なんでも録音しちゃったせいってのもあるんだと思う。

今日では、こういう演奏をする人はあまり見かけないので、オーマンディの録音は何気に貴重だと思う。忘れ去られないで欲しい演奏家の1人だ。

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「普通は…」とか、「一般的には…」とか言うときは、慎重になる必要がある。それが、どこでの「普通」、「一般的」なのか。自分の中での「普通」、「一般的」をごり押ししちゃっていないか。

この「普通」、「一般的」は、何の説得力もないはずなんだが、言った本人は、それだけでまるで正論を話しているような気分になってしまうからたちが悪い。

さて、これを音楽に当てはめてみよう。「普通の演奏」、「一般的な解釈」…そんな演奏はまったく買う気が起きない。「音楽は、社会生活とは違うでしょ?」と、まぁ、そうなんだけれども、案外に「あの演奏は、普通じゃないから…」と批判しちゃうことはあると思う。音楽でこそ、「普通」なんてどこに基準があるんだか解らないもんだけれども、その自分の勝手な基準で「普通」、「一般的」と言ってしまう。「近頃の演奏では…」と、少し引いて客観的に、聴いてみる必要があると思う。それでこそ、自分たちが当たり前と思っている演奏だって、(古い音楽では)当の作曲家からしてみればずいぶん、変な演奏をしているのだろうから。客観的に見て「普通」、「一般的」と言える場合もあるので、まったく使っちゃいけない表現ではないと思うけど、主観的になっていないか気を付けた方がいいとは思う。

ツェートマイアー&カメラータ・ベルンのヴィヴァルディの『四季』を聴きながらそんなことを考えた。

1995年の録音。モダン楽器による演奏だけれども、ピリオド楽器の演奏顔負けのエキセントリックな演奏だ。まず、『春』の第1楽章、のっけから独特のアクセントを付けた響きに耳を奪われる。モダン楽器の演奏で、これほどまでに自由な演奏をしているのは寡聞にして聴いたことがない。第2楽章のヴィオラも、流れるヴァイオリンの仄暗いメロディに乗っかるような感じではなく、鋭い響きで、まるで別物のように突っかかっていく。楽譜に添えられた詩によれば、このヴィオラは犬の遠吠えを表しているのだそうだ。『夏』でも、独特の歌いまわしは影を潜めることはない。みんな大好き第3楽章の嵐でも強烈なアクセントと切れ味の鋭い響きが音楽を切り裂いていく。完全にピリオド型の演奏。『秋』も流麗にはいかない。第1楽章は、収穫を終えた小作農たちの酒の入った踊り。だからか、アゴーギグな演奏がぴったりくる。第3楽章も、単なるのどかな狩とはいかない。『冬』の第1楽章のヴァイオリンの重音は歯の震える音を表現しているのだが、ツェートマイアーの演奏は、本当に寒々しい(笑)。切迫感すらある。第2楽章の美しいメロディは、速いテンポで駆け抜けてしまう。あっという間に第3楽章の寒い世界に引き摺り出される。

ピリオド解釈の演奏だからにして、至るところで即興的な演奏を披露しているし、テンポもいいので、聴き飽きた超有名曲が、新しい音楽として耳に届くことだろう。『四季』のあとに収められた2つの協奏曲もRV.253(『海の嵐』)、RV.583も同傾向の素晴らしい演奏。

ツェートマイアーと言えば、ムジークフェラインでブロムシュテットと共演したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いたことがあるんだけれども、これも強烈だった。ブロムシュテットって、保守的なイメージがあったんだけれども、先日の来日演奏会を聴いても、案外、ピリオド奏法に理解がある。まぁ、時代の流れだからなぁ。良いことだと思う。ちなみに、ウィーンでは、ツェートマイアーの演奏で、ワサワサなっていて面白かった。隣の老婦人は、首を横に振って、半分お怒りモード。オーストリアって、聴衆は保守的といわれているのに、なんで、アーノンクールだの、ツェートマイアーだのと言った個性派が出てくるんだろう。ちょっと不思議。

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秋も深まってきて、だいぶ寒くなってきた。寒い日に暖かい部屋で厚手の布に包まる至福。そして、音楽を聴く。ふと思い浮かべるのは、雪のウィーンザルツブルク…そして、ドレスデンだ。朝、ホテルの部屋のカーテンを開けて、眺めた銀世界、寒々とした空に鳴り響くフラウエン教会の鐘の音。氷点下のオープンカフェでビールを飲んでいるドイツ人たち…冬のドレスデンは観光シーズンではないが、なかなか風情があったと思う。

そのドレスデンは音楽の都である。と言うことは、よく知られているんだけれども、じゃぁ、代表する作曲家は?と言うと、今日ではリヒャルト・ワーグナーとリヒャルト・シュトラウスと言う2人のロマン派の大作曲家の名前を挙げる人が多いと思う。それと…なんか、バロックの作曲家たちと認識できていれば、上々。バロック時代の作曲家の名前を挙げられるのは、少しは古楽に興味のある人だろう。有名なのは、ゼレンカ、ハイニヒェン、ハッセと言ったところだろうか。ライプツィヒにJ.S.バッハがいたので、インパクトに欠けるかもしれないけれども、ドイツ・バロックの中心地と言ってもいいところだったようだ。

さて、そのドレスデンのバロック作曲家たちの中にピゼンデルと言う人がいる。ドレスデンの宮廷楽団(シュターツカペレ・ドレスデンの源流)で楽師長を務め、ヴァイオリンの名手として知られていたと言う。寺神戸氏の『シャコンヌへの道』の記事でも紹介したけれども、J.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータはピゼンデルのために作曲されたと言う説があるし、作曲にあたってはピゼンデルの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタに影響を受けているとも言われている。また、ヴィヴァルディやアルビノーニがピゼンデルのために作品を書いている。

ただ、作曲家としては、寡作だったらしく、今日伝えられている作品は決して多くはない。バロックの作曲家の多くは多作で、残された作品が少ない作曲家の多くは、紛失してしまっているだけの場合が多い。ピゼンデルの場合はどうなんだろうか。宮廷楽師長の仕事に集中していたために、作品が少なくなったとも考えられているようだ。そのため、当時いくら有名なヴァイオリニストだったとは言え、バロックの作曲家としては、今日さほどに知られた存在ではなくなっている。

そのピゼンデルの貴重な作品を収めた1枚をループで何回も聴いている。アントン・シュテックとクリスティアン・リーガーによるヴァイオリン・ソナタ集。1曲目のニ長調ソナタから一気に引き込まれる。軽やかで流麗な1楽章、哀愁漂うメロディアスな2楽章、開放的で技巧的な3楽章。とにかく美しくって、馴染みやすい魅力的な作品なのだ。一度聴き始めると止められない。その後、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ イ短調、ホ短調ソナタ、ハ短調ソナタ、ト短調ソナタと一気に聴き切ってしまう。5曲中、4曲が短調と言うことで、バロックとしてはずいぶん落ち着いたイメージ作品が多いが、メリハリがあるので、冗長になることはない。シュテックの演奏も流石。素晴らしい表現力で曲の陰影も見事に描かれている。

ドレスデンの写真でも見ながら、冬の夜を過ごそうか…。あ、まだ秋だ(汗)。


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ヨーロッパが基準になりやすいクラシックの世界でも、日本での人気は、決してヨーロッパでの人気ではない。

と、前置きをして…今日は、ブロムシュテット&バンベルク交響楽団の来日コンサートへ。この指揮者、独墺での人気は凄い。ウィーンで聴いたときは、満席だったし、チケットの入手も簡単ではなかった。ドレスデンやライプツィヒで聴こうと思えば、更に用意周到に計画を練る必要があるかもしれない。だけど、今日は、「当日券S席100枚ほどあり」。ドイツ人が見たら「日本に行っている暇があったらドイツで演奏してくれ…」と言いたくなるだろう。佐渡裕は、一瞬で入手不能になるのに、ね。まぁ、おいらにとっちゃありがたい。ほんの1週間ぐらい前に、「やっぱ、行こうかなぁ」と思って取ったチケットだ。半年以上前から行く気満々だったのに、近くなってからの気分次第でいっか、って感じで取れてしまう。Viva日本、Viva東京。

今回の来日、実は、御大85歳の記念ツアー。85歳でドイツから飛行機乗ってくるのか。キャンセルになるんじゃないか。なんて不安は、その姿を拝見すれば、無駄とわかる。ピシャッと背筋の通った姿勢、淀みのない足取り…こんな85歳見たことない。なんだ、ベジタリアンってこんなに健康なのか。人体の神秘。

演目は、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』、同第7番。ちなみに、おいらが、ブロムシュテットのコンサートに行くのはこれで3回目である。最初は、16年ほど前、NHK交響楽団を振って、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番(Pf コヴァセヴィッチ)、交響曲第5番『運命』をNHKホールで聴いた。2度目は前述のウィーンでのコンサート。ウィーン交響楽団を振って、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(Vn ツェートマイアー)、交響曲第7番をムジークフェラインで聴いた。そう、全部ベートーヴェンなのだ。おいらの中ではブロムシュテットといえば、ベートーヴェン、ベートーヴェンと言えば、ブロムシュテット…って、それはないか。CD持ってないし(汗)。

バンベルク交響楽団は、ドイツのドイツらしいオーケストラの代名詞みたいに言われる楽団だけれども、プログラムのブロムシュテットの話によれば、ボヘミア的な色も濃いらしい。そもそも、プラハ・ドイツ・フィルハーモニーを母体とする団体で、当初はチェコ人ばかりだったと言う。そうか、そう言えば、この楽団を振って、ヤルヴィ父がマルティヌーの交響曲全集を録音したり、ケンペが『売られた花嫁』を録音したりしたのには、そういう背景があるのか。と勝手に納得してみる。

さて、演奏。『英雄』が始まってすぐの印象は、やけに整った、やや迫力に欠く演奏だな、と。こっちの気分も乗っていなかったせいもあるかもだけど、まぁ、大体、コンサートの冒頭って、オーケストラもエンジンが掛かり切っていないことが多い。どうなるんだろうなぁ、と思っていると、だんだんと熱くなってきて、終楽章では十分な熱さに。バンベルク交響楽団の生演奏って今回が初めてなんだけれども、温もりのあるクリアで柔らかい響きが魅力的。派手さはないけれども、実に味わい深い。厚い響きではあるけれども、シュターツカペレ・ドレスデンのようなドスンとくるような重厚な響きとはまた違う。なかなか魅力的なサウンドだ。

後半の7番は、十分に熱くなったオーケストラが、小気味の良いテンポの弾けるような演奏を聴かせてくれた。当然、モダン楽器での演奏なんだけれども、ピリオド奏法を意識しているのかな、と思われる節もあった。まぁ、今のご時勢ヨーロッパの楽団だと、ピリオド奏法をまったく意識しない方が珍しいんだけどね。バレンボイムぐらい過去中毒をこじらせるとそれもそれで魅力的だったりもするけど(笑)。そして、あっという間に、終楽章へと。圧巻。あっという間に終わってしまった。そして、アンコールに『エグモント』序曲。かっこよく〆てくれた。と、同時に、これもベートーヴェンじゃんね。来週の演奏会も行けば、モーツァルトやブルックナーも聴けるけどなぁ。

終演後は、聴衆熱狂。オーケストラが引っ込んだあとに、指揮者を引き出す、通称、一般参賀あり。たぶん、今日の噂が広がって、来週のコンサートは満席になるんじゃないかな。そう願う。あれだけの指揮者なのに今日の空席っぷりは可哀想だ。

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古本祭りのディスク・ユニオンで入手した廃盤CD、ゲーベル&ムジカ・アンティクァ・ケルンのビーバーのロザリオ・ソナタを聴いている。最近、どっぷりとはまっている曲。バロック時代のヴァイオリン音楽の凄さを2時間掛けて堪能できる名曲。

技巧的な音楽なんだけど、中でもスコルダトゥーラと言う技法を多用していることで知られている。これ、何かと言うと途中で調弦を変えるという、めんどくさい技法なのだ。普通、ヴァイオリンの弦は左からGDAEと並んでいる。これが、例えば、ソナタ第2番では、AEAEと言う調弦になる。15曲のソナタと1曲のパッサカリアで構成される曲なんだけど、ソナタ第1番とパッサカリアのみが、通常のGDAEで、ほかは全て変則的な調弦になっている。楽譜には、それぞれの曲の冒頭に、調弦が指示されている。第11番では、D線とA線を駒の手前でクロスさせて張らなければいけない。実際の演奏会では、どうするのか。これは、楽器を何台か用意する以外に手はない。おいらは、一度シューマンのピアノ四重奏曲でチェロを持ち替えるのを見たことをあるが、ロザリオ・ソナタは、それを慌しくやっている。まぁ、聴いている分にはどうと言うことはない。頑張れ、ヴァイオリニスト。ちなみに、第11番のソナタでは楽譜にforteとか、pianoとか、バロックには珍しく強弱の指示が書かれている部分がある。fやpじゃなくて、forte、pianoと言うのが、面白いけど。他のソナタではさらっと見た限りない指示だった。

曲は、タイトルの通り、宗教色が濃いものだ。15の秘蹟をそれぞれのソナタが演奏する。パッサカリアは、まぁ、おまけ。ビーバーは、もちろん意味を持ってくっつけたんだろうけど、真意は不明のまま。それぞれの楽譜の冒頭に版画が載っていて、一応、パッサカリアにも天使が子供の手を引いている版画が載っている。そんでも、不明なものは、不明。不明と言えば、実を言えば、この曲、表紙が紛失しているので、本当のタイトルがわからない。しかし、表紙の次のページと思われる部分は残っていて、キリスト教の15の秘蹟に基づいて作曲したと書いてあるし、版画もあるので、曲の主旨は解る。それで、秘蹟のソナタ、カトリックでは、その秘蹟をロザリオの秘蹟と呼ばれていることから、ロザリオ・ソナタと呼ばれている。要するに通称だ。

さて、んでんでんで、この曲、妙に神秘的なときもあるんだが、言われなきゃ、宗教がらみの曲だとは思えない。そもそも、この手の音楽で宗教曲って珍しい。ビーバーはザルツブルクの宮廷楽長で、この曲も大司教マクシミリアンに献呈するために作曲されているんだが、どういう場面で演奏することを想定していたんだろうか。宗教的なのに舞曲がちょいちょい混じってくるあたりもなんだかよくわからない。とにかく、この曲はなんだか、よくわからない。曲は凄い。それは間違いない。それと併せて、こうしたミステリアスな部分も、中二病の心をちょいちょい突いてくる。

作曲年代は、1670年代の後半とされている。J.S.バッハとヘンデルが生まれたのが、1685年。ヴィヴァルディが生まれたのが、1678年。彼らの生まれる前に、こんなヴァイオリン曲が書かれていたと言うこと、これ、実は、J.S.バッハ以前の音楽に興味のない人が知ったらびっくりすると思う。

編成は、ヴァイオリンと通奏低音、パッサカリアだけは独奏ヴァイオリンのための曲。通奏低音はお任せ。マンゼ&エガー盤では、チェンバロ&オルガンだが、大抵は、様々な楽器を使っている。ゲーベル&ムジカ・アンティクァ・ケルン盤は、チェンバロ&オルガンに、チェロとリュートが加わる。リュートは、ユングヘーネル。この人はおいらでも知っている有名人。もちろん全てピリオド楽器による演奏だ。つか、これ、モダン楽器による演奏ってあるんだろうか。ネットで調べるとラウテンバッハー盤が1962年の録音らしいけれども、これはモダンか、ピリオドか。

演奏は、ゲーベルだからにして、切れ味鋭い。快刀乱麻。クセがあると言えば、その通り。この曲の持っている神秘性とか、宗教性とか、そういうのは、あんま気にしないで、バッサバッサ進んでいく。でも、そんな演奏が逆に神々しくなったり、神秘的に響いたり。もちろん、舞曲でも、本領を発揮したり。好き嫌いはあるだろうけど、これは名演。

ロザリオ・ソナタはバロック・ヴァイオリンの傑作だからにして、バロック・ヴァイオリニストの録音は多い。ミナジ、マンゼ、ホロウェイ、ベズノシウク、ゲーベルと揃えて、次に聴きたいのはレツボール何だが、これも廃盤なんだよなぁ。何とかして、ディスク・ユニオンで見つけ出したい。安いから(笑)。

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秋晴れ!ってほどスカッとした空模様ではなかったんだけれども、なんとなく心地よい気候だったので、夕方からふらっと神保町へ。欲しい本もあったし、久しぶりにディスク・ユニオンもチェックしたかったんだけど、この日はまずかった。古本祭り絶賛開催中。落ち着いた雰囲気の神保町が好きなのに、人がゾロゾロッとね。

神保町の駅を出たらすぐにパンフレットを配る人、受け取りたくって、集まる人でゴチャッとした感じ。すずらん通りには、食べ物を売るブースが出ちゃったり、路上でご飯を食べていたり。祭り気分で訪れる分には、良いんだろうけど、お散歩気分で出かけた身には残念な雰囲気。人ごみを逃れるように、ディスク・ユニオンに入り込む。

さて、ディスク・ユニオンは音楽ソフトのほかにも、少しではあるけれども、書籍がおいてある。ここで書籍を物色したことはないと思うんだけれども、今日は何とはなしに気になって、何冊か手に取ってみた。その中に、よくテレビに出てくる某女流ヴァイオリニストの書いたクラシック入門書があった。どんなことが書いてあるのか、気になって、ヴィヴァルディのページを見てびっくりした。ヴィヴァルディが古典派だと書いてある。で、その項のあとの方では、バロック音楽では…と書いてある。何なんだろうか?深く読み込んだわけじゃないけど、1つの項目は大変短く出来ていたので、簡単に前後の流れは把握できた。この文章を読む限り、この人は、古典派とバロックを混同しているように見えてしまう。

もちろん、本当にこの人の知識レベルがそんなものだとは思えない。中学校レベルの音楽史のお話だ。たぶん、何らかの意味を込めて、古典派と書いたのだろう。しかし、これからクラシックを聴こうと言う人に、読ませたら勘違いしてしまうだろう。テレビでこの人はいったい何を話しているのだろうか…?見てみたくなった(笑)。

秋晴れ…からは程遠い、愚痴っぽい話になってしまったけど、CDの方は、なかなか良い収穫があった。探していた廃盤のCDもお安い値段で見つかったし、興味深いCDがいくつもあった。Amazonだけじゃ駄目なんだよねぇ。時折チェックしておきたいディスク・ユニオン。

その中の1枚、ブリュッヘンのモーツァルトを聴いている。交響曲第31番『パリ』、同第35番『ハフナー』、同第36番『リンツ』、『皇帝ティートの慈悲』を収めたお腹一杯の1枚。中古だけど未開封の良品。どっかの在庫余りが流れてきたのだろうか。とりあえず、ブリュッヘンのモーツァルトを聴いてみたかったので試しに、と買ってみたもの。

これがなかなかの名演。鋭い響き、溌剌とした音楽運び、それでいて力強く、骨太なモーツァルト。ブリュッヘンは、ほかにもモーツァルトの交響曲を何曲か録音しているので、揃えて行ってもいいかな、と思う。あと、ツェートマイアーをソリストに迎えたヴァイオリン協奏曲集なんてのも興味津々。個性のぶつかりあいが、吉と出るのか…。

神保町散策のあとは、秋葉原にも行ってきた。今使っているイヤホンがちょっとやばい状態になっていたので、新しいのが欲しかったんだけど、今は、全部インナー型なんだよね。あんまり付け心地が好きじゃないんだけれども、諦めて買ってきた。上手くフィットすればいいんだけど…。

そう言えば、昌平橋の淡路町側のところにでっかいビルを建造中だけれども、どんなものになるんだろう。調べてみたら、こんなのが出てきた。おいらにとって役に立つかどうか、ちょっと微妙なところ…。


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■ 岐阜!

野暮用で岐阜にいる。名古屋から電車で20分弱。JR東海道線の快特で2駅。名古屋も岐阜も県庁所在地なわけだけれども、これほど隣の県庁所在地への移動時間が短い所が他にあるだろうか。ちょっと思いつかない。オーストリアの首都ウィーンからスロヴァキアの首都ブラティスラヴァまで1時間弱なんてのを思い出してしまった。

こうなるとついつい名古屋だか岐阜だかわからなくなることがある。「折角、岐阜に来たんだから、味噌煮込みうどんを…」なんて言い出す始末だ。まぁ、それでもその要望にちゃんと応えられてしまうんだから、文化圏としては似たようなものだと思っていてもいいんだろう…なんて、高を括っていると、そうでもなかったりするのだからややこしい。

で、岐阜と言えば何なのか。織田信長…それから…織田信長。駅前に金ぴかの像が鎮座していると言う。金の鯱を思い出してしまう。出身地ではないんだけれども、この人はこの地では英雄なんだろう。それから、鵜飼。これは見てみたいんだけれども、ちょうど先週で終わってしまったらしい。うん、残念。

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アレクサンドル・タローというピアニストがいる。タローと言うと太郎っぽいんだけど、どうやら日本とはまったく関係ないようだ。とは言え、タローという名前、日本人にはインパクトがあって覚えられやすいと思う。ブニティアs(略)とかもうね、どんな良いピアニストでも、なかなか名前を覚えることが出来ない。

さて、このピアニスト前々から気になっていた。名前もさることながら、CDの企画が、なかなか興味深いものばかりだからだ。クープラン、スカルラッティ、ラモーと言ったバロック系のほか、シャブリエ、ラヴェル、サティ、ドビュッシー、シューベルトと、なかなかマニア心をくすぐってくれるレパートリーを並べているのだ。容姿も知的で端正。ハルモニア・ムンディ・フランスからリリースしていると言うのもポイントが高い。もちろん、入ってくる評判も良いものが多く、一度聴いてみたいと思っていたんだけれども、ここまでCD購入は1枚もなし。

と言うわけで、新譜を1枚買ってみた。「屋根の上の牛」と言うタイトルのCDで、副題にスィンギング・パリとある。「屋根の上の牛」と言うのはチャプリンの映画のためにミヨーが作曲した曲の名前。ミヨーは、ブラジルの大衆音楽に影響を受けてこの曲を作曲しており、このタイトルも実はブラジルの古いタンゴに起因している。で、この曲の名前を拝借したキャバレー(居酒屋)が、1922年パリにオープン。ここはフランス6人組やサティ、コクトー、シャネルと言った文化人の溜り場になっていたらしく、第2次世界大戦前のパリの粋を詰め込んだような空間だったらしい。

このキャバレー「屋根の上の牛」の雰囲気を再現しようと言う企画が今回のCD。ミヨー、ガーシュウィン、ラヴェルと言ったクラヲタお馴染みの作曲家の名前も並ぶが、ほとんどが聴いたことのない人たちの曲。副題のスィンキング・パリの通り、ジャズの色が濃厚な曲ばかりだ。先に挙げた3人にしたって、ジャズと関係の深い作曲家だ。第1次世界大戦後間もなくのパリ、ロマン派≒クラシックが終焉を迎え、次の時代への試行錯誤の中、ジャズは多くの作曲家、文化人たちに大きなインスピーレーションを与えていた。そんな時代の転換期の中で、キャバレー「屋根の上の牛」は社交の場として、少なからぬ役割を果たしていたのかもしれない。

さて、このCD、以上の話を裏切って、1曲目からお馴染みのメロディが鳴り響く。ショパンのポロネーズ、これは『軍隊』か。しかし、この曲、すぐにジャズっぽく変化していく。タイトルは、ショピナータ。この後もリストやワーグナーをジャズ風に編曲した作品が出てくる。ショピアーナの次は、ガーシュウィン。そして、どんどんスィングしていく。軽やかに、洒脱に…古きパリの粋が耳に心地よく吹き込んでくる。時には、歌や合唱、バンジョーやパーカッションも加わる。セント・ルイス・ブルースでは、ピアノがチェンバロになる。2台のピアニストのための曲ではフランク・ブラレイも参加。当時のキャバレーは喧しかったんだろうけど、この音楽を聴いていると、幻のように静かにその雰囲気が広がっていく。なんと言う小粋な空間だろう。タローの演奏も雰囲気があってかっこいい。

アレクサンドル・タローの企画も演奏も素敵なCD、ちょっと息抜きをしたいときにお勧めの1枚。

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■ 秋田!

野暮用で秋田。来秋とでも言うのか。来年の秋みたいな…ま、いっか、そんなことは。で、だ。北国を完全になめていたのだけれども、寒い。10度くらいだと思う。

交通手段は、秋田新幹線。4時間。飛行機にするかどうか一番悩む長さ。飛行機だと羽田に30分前に着かなくちゃいけなくて、1時間かかるとする。んで、フライトが1時間、そこから、バスで市内まで1時間。乗り継ぎ合わせたら、大して変わらない。値段はどうかと言うと、パックにすると大して変わらない。他の方面だと、富山とか、広島とか、このあたりが、このボーダーに引っ掛かってくる。おいらは時間が一緒なら、乗換えだとか、保安検査場だとか、そういう面倒が少ない新幹線を選ぶ。外の景色もいいしね。それに、羽田で秋田までと言っても、ワクワクしないけれども、東京駅で秋田までと言うとなんか、ワクワクする。そこから出発する遠い方への旅立ちが一番、中2病の心をくすぐるのだ。羽田なら沖縄線(国外線はなかったことにする(汗))、成田なら欧州線、そして東京なら秋田、広島って感じだ。

まぁ、そんなわけで、今日は移動しただけ。別に明日何かするわけでもないけれども(涙)。

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金澤正剛著『新版 古楽のすすめ』(音楽之友社、2010年)を読み始めた。読むのは遅いほうで、まだ最初の方しか読んでいないんだけれども、著者がハーヴァード大学でチューター(指導教員)をした頃に出会った、一人の青年の話が興味深かったので、ちょっと長くなるけれども引用して紹介してみる。

「(略)学寮に、チェンバロを得意とする学生がひとりいた。フランスのロココ芸術に夢中な、極めてエキセントリックな青年であった。ある日のこと彼の部屋に行ってみると、裸になって、しきりに壁に絵の具を塗りたくっている。何をしていると尋ねると、自分の好みに合った部屋に飾り変えているのだという。裸でやっているのは、たくさんの絵の具を使うので、どうしても絵の具だらけなってしまう。裸なら、あとでシャワーを浴びれば簡単だからということだった。完成したらパーティを開いて見せてあげるから、それまでは秘密、秘密と言って、その場は追い出されてしまった。
 半月後、約束のパーティを開くからというので行ってみたが、彼の部屋に一歩入ったところで唖然としてしまった。伝統的なニューイングランドの渋い様式の外部とはまさに対照的な、華麗な別世界に足を踏み込んだと言う感じであった。その装飾は明らかに美術書などを参考にしてデザインした本格的なロココ様式で、特に寝室は雪のように淡く白いカーテンの上に、ルイ十四世朝様式の王冠を飾るという念の入れようである。」(P.14)

「(略)私も彼の才能を認めて、音楽会の企画を任せたことが何度かあった。例えばあるときその彼が、バッハの《コーヒー・カンタータ》を劇的な演出つきでやってみたいと言い出した。よかろうと許可したところ、さっそく愛器のチェンバロを大広間に持ち込んできた。舞台としては、大広間そのものが時代がかった雰囲気を持った部屋なのでそのまま使えばよい。正面には大きな暖炉があるが、彼はその前に骨董品の大型コーヒー・メイカーをどこからか見つけてきて、どんと据えた。そしてチェンバロを弾きながら指揮に当たるばかりではなく、歌っている歌手とパントマイムを演じた上、休憩時間にはコーヒーをいれて、聴衆に配ってまわった。」(P.15)

「(略)ぜひ一度、四台のチェンバロのためのコンチェルトを演奏してみたいという。当時はまだ、芸術の都ボストンといえども古楽の復興は始まったばかりの頃である。古楽器を四台揃えるのも大変なら、それを弾く四人を見つけることさえおぼつかない。私はできるものならやってみろと許可したものの、内心無理だろうと高をくくっていた。ところが彼は即座にチェンバロ三台を演奏者付き(四人目は彼自身)で見つけてきて、しかも実に見事な演奏を披露したのである。これにはまったく感服してしまった。」(P.15)


青年の行動力とアイデアの豊富さには驚くが、それを押さえつけないで自由にやらせてくれる学校側もなかなかなものじゃないだろか。寮の部屋をそんな風にしてしまったら、いくら芸術系の学校だって、大変な問題になるだろうに。

で、この青年、只者じゃないってことで、このあとネタばらし。ウィリアム・クリスティと名前を明かしている。ベルサイユ楽派の音楽を現代に鮮やかに蘇らせたフランス・バロック(古典派)の権威的存在である。古楽好きなら、初心者のおいらでも知っているレベルの超大物。1979年に結成したレザール・フロリサンとは、仏ERATOに数多の録音を残している。アガサ・クリスティの親戚と言う噂もあるが、真偽は確認が取れないと本文にあったので、ネットで調べてみたけれども、やはり判らなかった。

こういう誰もやらなかったことをやって、多くの人を説得してしまう人って言うのは、常識に捉われない自由な発想があって、逸話に事欠かない。狭い世界で生きて、自分の常識以外を否定するような一部の人からは悪しき異端と見られるだろうけれども、多くの人からは、敬意と羨望を得ることになる。音楽家ならばなおさらのことだろう。

さて、このクリスティ御大ととも演奏活動を行った日本人ヴァイオリニストにヒロ・クロサキ氏がいる。以前このブログでインタビューのリンクを貼ったことがあるのだけれども、寡聞にして演奏を聴いたことはなかった。レザール・フロリサンのコンサート・マスターを務めていたこともあるので、正確に言えば、聴いたことがあるのかもしれないけれども、ソロで演奏しているCDは1枚も持っていなかった。とは言え、聴いてみたいと思っていたので、廉価盤になって、お求めやすくなっているヘンデルのヴァイオリン・ソナタ集を買ってみた。通奏低音は、チェンバロかオルガン。曲によって使い分けている。演奏しているのは、クリスティ。

もちろん、バロック・ヴァイオリンでの演奏なんだけれども、尖がった感じはしない。活き活きとして流麗かつ艶やかな響きがスピーカから心地よく流れ出てくる。バロック・ヴァイオリンの響きは、疲れているときに聴くとエキサイトし過ぎて、付いていけないこともあるんだけれども、ヒロ・クロサキ氏の響きには、そういうきつさはまったく感じない、もちろん、モダン楽器のように優美に過ぎることもない。飽きない。クリスティの伴奏も素晴らしい。ソリストとの掛け合いも見事。オルガンの通奏低音と言うのも、珍しいような気がするけれども、優しい響きがなんとも魅力的である。ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ集のファースト・チョイスにもなると思う。

ちなみに、ヘンデルのヴァイオリン・ソナタ集はミナジの演奏も、楽しいんだけれども、あまりにもエキサイティングでファースト・チョイス向けではないのかも。おいらは、それまでまともに聴いたことはなかったけれども、ヒロ・クロサキ氏の演奏を聴いてからのほうが、より楽しめたかなとは思う。なお、ミナジ盤の通奏低音は、チェンバロとチェロである。

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