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諸事情があって、OSをWindows Vistaにした。とっっっっっっても評判が悪いようだけど、さてさて、そんなに悪いものだろうか。サクサク動いてくれているし、デザインも悪くない。セキュリティもWindows XPよりだいぶよくなったみたいだ。まぁ、こないだグラボ突っ込んだしなぁ~。動きは良いわけだ。

でも、今秋には新しいのでるんだよね?Windows7とか言う。ま、また替えればいいか。

しっかし、あれだな、OS入れなおすとソフト全部インストールし直さなくちゃならないから、とてつもなくめんどくさい。まだ、いつも使っている画像ソフトやライティングソフト入れてないや…。OSとドライバ何とかしたら、「とりあえず、これでいっか」ってなってしまった。明日やろう。いや、必要になったら入れようか…。

 

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トムラウシの大量遭難を契機に再び、中高年の登山を非難する報道が増えている。「戻る勇気が必要だ」とか、無知が何も考えないでしたり顔で語っている間抜けな報道も多い。日帰り登山なら露知らず、何泊もするような縦走で、進むべきか戻るべきかの判断はとても難しい。

ほかにもこんな報道がある。遭難者の80%、死亡事故の90%が中高年の登山者である、だから、中高年の登山は危険だ、と。ホント頭の悪い報道である。山に行けば、登山者の殆どが中高年であることぐらい一目瞭然だ。実感的には、90%以上が40歳以上の、いわゆる中高年の登山者。割合から言えば、中高年の遭難が多いとはいえないんじゃないだろか。遭難者の20%が30代以下であることのほうが不思議なくらい。

それにしても、なぜ、こんなにも登山は中高年のものになってしまったのだろうか。登山は、技術もいるが、やはり体力なくしては、話にならない。本来であれば、若い人の方が断然有利で、登山者にも若者の方が多くてしかるべきである。こうなった経緯(っぽいもの)をおいらの曖昧な知識でまとめると次のようになる。

そもそも我が国には、登山文化というものは存在しなかった。あったのは信仰登山、それに稀に職業的に測量のようなことをやっていたくらい。登山文化が根付いたのは、明治以降。ウォルター・ウェストンらが持ち込んだもので、小島烏水や小暮理太郎、岡野金次郎、田辺重治、武田久吉と言った人たちが、冒険心で信仰ではない登山文化にのめりこんで行った。

このころの登山は、まだまだ山が閉ざされており、大抵は地元の猟師や樵を道先案内人にしないと、大きな山には登れなかった。そこで活躍したのが、上条嘉門次、宇治長次郎、佐伯平蔵と言った人たちだった。彼らを雇うにはそれなりの資金が必要だったし、自然に対するそれなりの知識や探究心が必要だった。

だから、この頃の登山家は知識階級の人が多かった。山の男と言えば荒々しい感じがするが、インテリジェントだった。それが戦後になって、ダム工事が増え、交通網が発達し、登山口が近付くと猫も杓子も山に向かうようになる。登山ブームの様相を呈し、特に若い人が次々に山に向かっていった。難路を見出し、岩に取り付き、遭難が多発した。大学の山岳部も多かったが、この頃の登山者は、インテリジェントではなくなりつつあったようだ。若者の有り余ったエネルギーの矛先が山に向かっていった、と言う感じだろうか。学生紛争時代の血気溢れる若者たちならではの行動だ。

やがて、無気力化した若者たちは山から離れていった。いまや、大学の名門山岳部が次々と存続の危機に立たされ、山に行っても大学の山岳部の一行を見ることはだいぶ少なくなった。その代わりに、出てきたのが中高年の登山者である。朝日新聞が端緒となって、百名山ブームが全国を席巻し、そのブームを支えたのが中高年だったのである。山に、100名山、200名山、300名山と言うランク付けが行われ、100名山を中心に登山ツアー発達。知識も経験も浅い中高年の登山者が、こういったツアーに殺到した。

この中高年の登山者には、2種類のグループがある。一つ目は、ブームに乗って、中高年になってから山を始めたグループ。もう一つは、若い頃、登山ブームで山に登りまくっていて、年老いてゆとりが出てきて山に帰ってきたグループである。

前者は、年齢的なプライドはあるが、経験も知識もない。「今の若い者はだらしねぇ」と言って、若者より元気なつもりになっている人も多い。後者は、若い頃の自分と比べて、「やっぱ、体力落ちたなぁ」と凹んでいるが、知識も経験も豊富で、体力ではなく技術で山に登っていたりする。前者より遭難する可能性は低そうだが、自慢気に30年前の地図を見せびらかしたりするので、これはこれで危険だ。宝探しに行くんじゃないんだから、地図は最新のものを持って行かなければならない。もちろん、古い装備を自慢気に持ってくるのもこういう人たち。もちろん、きちんとした人もいて、こういう人は若い人の手本となる。おいらもいろいろ教えてもらっている。先人の知恵や経験は侮れない。

さて、こうして大増殖した中高年の登山者だけれども、最近は徐々に減りつつある。中高年登山者の遭難報道が多いせいもあるだろうし、前のパラグラフでの後者のパターンの人たちが老いてきたこともある。また、ブームが去りつつあるのも確かだろう。そもそも、中高年登山ブームのきっかけとなった日本100名山だって、深田久弥の個人的な「感想」でしかない。『日本百名山』と言う本を読めば、そのことは明白だし、深田だってすべての山を登っているわけではない。東北や北海道には、深田の足跡の残っていない名峰も多い。そんなものに振り回されてコレクションするのは金と時間の無駄だし、深田本人の意図するところでもないだろう。

そんなこんなで、中高年の登山ブームもやがて去るのだが、では今後はどうなっていくのだろうか。戦後の登山ブームと中高年の登山ブームのような形には戻らないと思う。好きな人だけが好きなように登る。おいらならコンデジ片手にふらっと登って、山の雰囲気を満喫する…それだけで幸せだ。山頂で絵を書いている若者を見たこともある。カメラを担いでいる人もいる。ブームとかじゃなくて、そうやって自由に山を楽しめるような時代が来るんじゃないか。そうなるといいな、と希望的観測を加えながら、思う。

そうすると、今回遭難したツアーみたいなのはなくなっていくんだろうな。今回の遭難の原因なんてはっきり言ってツアー登山と言う形態にあるんだから、まぁ、それもしょうがない。需要が増えすぎて、お粗末になったガイド、登山者の高齢化が進みトムラウシレベルの山で70歳以下と言う緩い縛りを設けざるを得なかったツアー会社、飛行機の予約等で無理をせざるを得ない時間的事情、ガイドがいるからと安心して参加してしまう登山者。誰が悪いって言うんじゃなくて、こういう欠点を誘発してしまう、ツアー登山と言うシステムそのものに問題があるんだと思う。

だから、自分で計画ができて、自己責任で自由な想いで登山する人たちが、山を目指す、そういう人が多いのが理想なんだな~。

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Example 1

白馬三山に縦走したときのことである。白馬岳本峰、杓子岳を経て、最後の白馬鑓ヶ岳の山頂で一服していると、中高年の集団がやって来た。簡単に挨拶を交わし、お互いくつろいでいると、一人が、目の前に聳える剱岳を指差して、こういった。

「あれ、あれが槍ヶ岳かしら?」

仲間が突っ込むだろうと期待したおいらが馬鹿だった。

「そうねぇ…」

耐えられなかった。

「あれは剱岳ですよ。槍ヶ岳はあっちの小さく見える山です」
「あーら、そうなの?アハハハハハ、とんがっているから槍ヶ岳かと思っちゃった」

話し始めたついでだったので、「どちらに行かれるんですか?」と訊いてみて、びっくりした。

「どこに行くのかしら?私よく知らないわぁ~。○○さぁん!(少し離れたところにいたリーダーっぽい人)次どこ行くのかしら?」

今どこにいるかも判らない、これからどこに行くかも判らない。3,000m近い日本アルプスの山頂で!!そもそも山に興味ないんじゃないだろか?

で、○○さんの口から出たこれから行くところを訊いて「は??????」と思ってしまった。この一団、この後、唐松岳を目指すのだそうだ。そう不帰のキレットを超えていくと言うのだ。その名が示すとおり、日本アルプス有数の難所である。おいらの山の師匠に言わせれば、「ヘルメットとザイルを持っていくべき」と言う場所である。なんとも…恐ろしいことである。

Example 2

昭和38年、後に言う「サンパチ豪雪」が日本海側を襲った。この年の年末から立山連峰の名峰、薬師岳(2,926m)に愛知大学のパーティが入山した。下山予定日は、1月6日。しかし、予定を1週間過ぎても、下山した様子がない。そして、愛知大学は富山県警に捜索願を出したのが1月14日。

若し、助かっていれば、太郎平小屋の扉が破られているはずである(冬季、山小屋は扉を板で打ち付けてある。緊急事態があると登山者はこれを破って小屋に入る)。しかし、22日に飛んだ新聞社のヘリコプターからは、太郎平小屋に人の気配は確認できず、パーティー参加者13名、全員の生存絶望が決定的となった。

薬師岳には、このときの遭難碑が今もひっそりと立ち尽くしている。

Example 3

五竜岳に登った時のことである。途中の大遠見で休憩していると、60がらみの男性が白馬岳を指差して、自慢気に語っている。

「今は皆、ハクバ岳、ハクバ岳と言っているけれども、俺が若い頃は、ハクバなんていわなかった。蓮華岳と言ったんだ」

もちろん、白馬岳のことをこの人はハクバ岳と連呼していたのだけれども、登山愛好家でハクバと言うのは少し恥ずかしい。村の名前はハクバ村だが、山の名前はシロウマ岳である。それと蓮華岳は地域的な呼称であって昔の人が皆、蓮華岳と言っていたわけではない。そのことは、昔の登山家の記録を読めば明白なこと。

山と付き合い始めてから長いのだろうが、残念ながら知識にはだいぶ欠落のある人の様だった。経験が正しい知識に結びついていない、悲しい例である。

Example 4

1967年8月1日、学校教育の一環として、西穂高岳に登山した松本深志高校の生徒、教員、60名が下山中に悪天候に見舞われた。危険を感じた一行は周囲に避難場所を求めたが、岩山である西穂高近辺に逃げ場はなかった。

そこに一閃、雷が走った。一瞬にして、9名が雷撃で、2名が転落して命を失った。落雷事故としては最大の被害が出たこと、若い高校生たちが犠牲になったことから、世間に大きな衝撃を与えることとなった山岳遭難である。

Example 5

年末に南アルプスの鳳凰三山に登った時のことである。夜叉神峠から入り、南御室の小屋で一泊し、翌日、早朝に薬師岳と観音岳の山頂まで行って、夜叉神峠に帰ってきた。森林限界より下は風もそれほど強くなく、青空の下、白峰三山が綺麗に眺められたが、山頂付近では激しい風雪に見舞われた。青空の下で見えた白峰三山も良くみれば、山頂付近で強烈に雪が舞っているのが確認できた。冬山の風は、非常に恐ろしいものである。

さて、下山して聞いた話しによると、ちょうどおいらが山にいる間に白峰三山の最高峰、北岳(3,193m)で遭難があったと言う。なんでも、外国の高山にも登ったことのあるベテランの夫婦が、軽装で入山したのだと言う。日本の山なんて…と舐めてかかったのだろう、と言うことだった。幸い、命は助かったとのことで、まぁ、一安心ではあったけれども。


山に行く人は色々いる。Ex1のようにとんでもない人もいるし、Ex3のように遭難とは直接関係ない知識だけど、長年山に登っていて、それだけでベテラン気取りになっている人もいる。悲惨な遭難事故もあるし、たまたま助かった人もいる。Ex1のような人でも遭難しないときは遭難しない。と言うより、大抵、遭難しない。

たとえば、高層ビルの屋上で柵の外側を歩いたからって、必ず落ちるもんじゃない。寧ろ、落ちない場合の方が圧倒的に多い。だけど、危険だ。何かあった時に、十分、責められること。Ex1はそう言うことをしているのだ。

さて…と、考える。自分は大丈夫だろうか、と。主観的に自分では大丈夫と思っているから行動するのだ。客観的にみて判断して、大丈夫なよう重々気をつけなければならない。

と、まぁ、こんなことを書くのは、トムラウシでの遭難事故があったから。10名もの方が亡くなった。北海道の自然を舐めているとか、行動がまずかったとか言われているが、それは外野の戯言だ。

大体、北海道の自然を特別扱いすること自体、自然を舐めている。本州の山は北海道の山より危険じゃないのか?そんなわけない。危険の種類が違うだけだし、今回のような事態は、本州の山でも十分起こり得ることだ。北海道の山に特化した問題じゃないだろう。

ガイドさんの行動も問題視されている。朝、天気が大荒れだったのに出立したとか、足が速くて付いていけなかったとか。確かに、おいらなら、天気が大荒れの状況で避難小屋から出ることはなかっただろう。でも、それは個人で行ったときのこと。これだけの大人数での行動となると、何が起こったのか、憶測で語るのは危険すぎる。下山の足が速くなったのも、足の遅い人に合わせていたら助かる人も助からなくなると思ったからかもしれない。真相を知らない外野がしたり顔で偉そうに非難するものではない。

何はともあれ、「山を愉しみたい、北海道の大自然を満喫したい」、そう言う純粋な気持ちで山に行って、こういう悲惨な目にあわれた遭難者の方々のことを考えると、胸がつまされる。どんな気持ちで、助けを待っていたのだろうか、冷たくなっていく体を抱えて、何を思い、何を考えていたのだろうか。そんなことを思うと、可哀想で、可哀想で仕方がない。

あ、ただ、これだけは言わせて。

登山は中高年のものじゃない!むしろ、体力のある若者向けのものである、と。

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梅雨、明けましておめでとうございます。今夏もよろしくお願い申し上げます、っと。

遂に、夏、到来。何故か、毎年、焦るのだ。「わ、わ、なんかしないと」と。特に晴れると言われる梅雨明け10日。慌てて、旅程を組んでみたら、そっちの方向はまだ梅雨明けしていなかったりする悲しいオチ。そんなことは、良くあること。天気にはくれぐれもご注意を。

さて、インドア的には、更にヴァイオリンの発表会へ向けた練習も熱心にやらなければいけなくなってきた。音程の悪さには我ながらうんざり。カラオケで下手っぴが歌う歌のようだ。悲惨。壮絶。凄惨。下記のyoutubeから発表曲のミルシテインの演奏が聴けるのでいらっしゃってくださる方は、聴いてみて(難しいところはカットしたヴァージョンで演奏するのだよ)。まぁ、なんだ、おいらの演奏聴いたら「別の曲じゃねーか!!」と思われるかもしれないけど、本番は、優秀な仲間がいるので、そこまで大変なことにはならないと思う(←他力本願)。

コレルリ:ラ・フォリア変奏曲/ミルシテイン(vn)

練習した後は、耳直しにいい演奏を聴こう!と言うことで、まずは、先日紹介したカピュソン&ハーディングの『屋根の上の牡牛』を聴く。やっぱ、滅茶苦茶で楽しい。脳味噌、ハッピー。ミルシテインはこんな曲は、演奏しなかったんだろうなぁ~。

続いて、ナイジェル・ケネディ&アイルランド室内管弦楽団のJ.S.バッハ。こちらも楽しいのだなぁ。DVDだから映像も楽しめて吉(youtubeにあったので、下記に1曲だけご紹介)。似たようなプログラムでCDも出していてこちらは、ベルリン・フィルのメンバーと録音したもの。

J.S.バッハ:ヴァイオリン協奏曲第2番 BWV1042
 
第1楽章 アレグロ
 
第2楽章 アダージョ
 
第3楽章 アレグロ・アッサイ

それにしても…ミルシテインにしろ、カピュソンにしろ、ケネディにしろ、何でこんな美しい音色が出るのだろうか?ヴァイオリンって凄い楽器なんだなぁ~。

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すんげぇよなぁ、youtube。動いているのを見たことのない伝説の演奏家たちから、今をときめくスーパースターまで、映像を見放題。そのうち、モーツァルトの演奏が鑑賞できるんじゃないかと、頭の悪い期待もしてしまう今日この頃。

最近観たものでは、フルニエ、チェリビダッケ&フランス国立放送管弦楽団のドヴォルザークのチェロ協奏曲が最強に良かった。音楽も素晴らしいんだけど、胡散臭い新興宗教の教祖みたいなチェリビダッケと絵に描いたようなジェントルマンであるフルニエの組み合わせが映像的にも絶妙。ショボく見えるようなアングルもあるけど、時代を考えれば止むを得ない。ちなみに、収録時期は1975年か、翌年くらいだと思う。この短期間だけ、チェリビダッケは、フランス国立放送管弦楽団のシェフを務めていた。

ちなみに、「あれ?チェリビダッケの時代って組織改変の後で、フランス国立管弦楽団になってなかったっけ?」と思ったんだけど、それは思い違いだった。パリ音楽院管弦楽団からパリ管弦楽団への組織改変とセットに考えてしまうので、フランス国立管の組織改変はついついもっと古いことかと思ってしまう。

…それはともかく、全曲分、以下にご紹介。第1楽章 Part2でチェリビダッケの気合も聴ける。うるさいだけだけど(笑)。

第1楽章 Part1
第1楽章 Part2
第2楽章 Part1
第2楽章 Part2
第3楽章 Part1
第3楽章 Part2

あー、フルニエかっこぇぇなぁ…。こう言う超品格ある老紳士って憧れる。終演後の立ち居振る舞いもとても上品だ。音楽も全盛期を過ぎているとは言え、雄渾なのに優しい、ミラクル・サウンドだねぇ。DVD化されないかなぁ。CDでもいいや。ステレオでリリースされたら結構売れするだろうなぁ。おいらも馬鹿っぽく3枚はゲットしたい(嘘)。

そう言えば、チェリビダッケとフランス国立放送管弦楽団と言えば、楽団創立40周年コンサートでミケランジェリを迎えてラヴェルのピアノ協奏曲をやっているはず。こちらも伝説化しているので、ケチケチせずにソフト化して欲しい。こちらは5枚は買うだろう(もちろん、嘘)。


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電車の中で、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聴いてみた。幾何学的と言うのかな?綿密に計算されつくされた音符の踊りと、高度な重音で奏でられるハーモニーに幻惑されつつ、都心の地下鉄を彷徨うのも悪くない。演奏は、グリュミオー。先日、カントロフも買ってきたんだけど、取り敢えず。

ところで、おいらのポータブル・オーディオ、KENWOODなんだけど、イヤフォンはSONYなのだ。あんま良いやつじゃないんだけど妙に耳にフィットするのでずっと使っている。別メーカーでいいのか?関係ねぇ。で、ふと思った。おいらの部屋にある電化製品、メーカーばらばらだ。列挙してみると、

エアコン…SANYO
メイン・スピーカー…Infinity
サブ・スピーカー…小泉無線
PC用スピーカー…DIATONE
ヘッドフォン…audio-technica
CDプレイヤー…DENON
プリメインアンプ…LUXMAN
PCモニタ…SAMSUNG
スキャナ…EPSON
ノートPC…SHARP
プリンタ&デジカメ…CANON
電話(子機)…Pioneer
携帯電話…TOSHIBA
ポータブルプレイヤー…KENWOOD
イヤフォン…SONY

こうなる。ついでに、PCスペックも、

マウス…Logicool
マザボ…ASUS
グラボ…ELSA
光学ディスクドライブ…TEAC&Pioneer
CPU…AMD

こんな感じだ。まぁ、PCはばらばらになるだろうけどねぇ、ほかでも何のこだわりも感じない。ハハハ。良い物を買えばいーのだ。デジカメだって、MINOLTA→OLYMPUS→CANONと来ているし。色の好みとかあると思うんだけど、まぁ、その時その時でよさそうなものを買っている。

そんなわけで、SACDプレイヤー買うとしたら、別のブランドになるんだろうか…いや、そうしたい欲望が沸々と沸いてきた。これもブランドに振り回されているってことだけど、ね。でも、そんなことを考えないでも候補は、新たなメーカーだ。あ、微妙にPC内部と被っているけど(Esoteric)。

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今日、自転車で両国橋を渡ろうとすると、なにやら工事をしていて道が狭くなっている。何事かー?と思ってふと気がついた。もうすぐ隅田川の花火大会なのだ。そのために、毎年ここは「なんか」している。一時的なものだから大した工事じゃないと思うんだけど、施工業者は飛島建設だったなぁ。なんか、因縁があるんだろか。

さて、両国橋を越えて…用は秋葉原なのだ、もちろん。今日は当てがなかったんだけど、結局、結構買い込んでしまった。で、今聴いているのが、ルノー・カピュソンのフランス・ヴァイオリン名曲集。

まぁ、名曲集って言っても、世に出ているもので、ほんとに、いわゆる有名曲の詰め合わせって少なくって、製作者側の思い込みの激しい名曲集ってのが殆ど。それは悪いことじゃなくって、クラヲタ的にはそう言う選曲に個性を感じたりして楽しいんだけど、「ヴァイオリン聴いてみたいなぁ~」的なノリの非クラヲタがこういうCDを買ってしまうと悲惨なことになる。ベートーヴェンの第九と間違えて、マーラーの第九に行っちゃったみたいな。いわゆる有名曲の詰め合わせは一時期流行った「BEST100」シリーズみたいなものになって、こちらにはクラヲタは白けた目を向ける。

前振りが長くなったけど、カピュソンのフランス・ヴァイオリン名曲集も全然、有名曲の詰め合わせにはなっていない。かといって、すんごいマイナー曲が入っているわけでもない。通好みでも、万人向けでもないCD。収録曲は以下のとおり。フランスでヴァイオリンときたらサン=サーンスだらけになるのは…まぁ、止むを得ない。

サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ
マスネ:タイスの瞑想曲
サン=サーンス:ハバネラ
ラヴェル:ツィガーヌ
サン=サーンス:ワルツ・カプリース
サン=サーンス:死の舞踏
ベルリオーズ:夢とカプリッチョ
ミヨー:屋根の上の牡牛

今更なんだけど…カピュソンと言うヴァイオリニスト、まだ30台半ば(録音当時は20台半ば)でありながら、実に、美しく魅力的な音色の持ち主だ。と思ったら、グリュミオーに代表されるフランコ=ベルギー派の流れを汲んでいるらしい。どうも、おいらは、グリュミオーと言い、フランチェスカッティと言い、フランスとか、ベルギーとか…あの辺のヴァイオリニストが好みらしい。所有のヴァイオリンも御フランス特製だしね!

このCDで特に楽しかったのが、ミヨーの屋根の上の牡牛(屋根の上のヴァイオリン弾きとは関係ないっぽい)。この20世紀音楽にはあるまじき、ドンチャン騒ぎの、どうしようもなく俗っぽい曲(笑)を実に爽快に演奏してくれる。ヴァイオリンの音色が妙に艶っぽかったりもするんで、お腹いっぱいに楽しめる。ハーディング&ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンとガチで取り組んじゃってくれているんだから、そりゃ、最高なわけだ!!その他、タリス瞑想曲やツィガーヌも名演。国内盤で1,500円とお求め安い価格と言うのも魅力的だ。


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山上の想い。一体そこで、私に限らず、人々は想いらしい想いを抱くことがあるのだろうか。大きな風景がのしかかり、下からのしあげ、私を静かな混乱におとし入れようとする時、それらの風物から自分の内部を守るために、遥かなる天を見たり、仰向けに臥たりしてみるが、山上で想念を整えることは決して易しいことではない。それは多くの場合、雲の去来のように、自分のこととは言えないようなところを通りすぎて行くに過ぎない。
想念と言うよりは、それは幻影に近い。雲や霧の中に、私の姿が夢の中の見知らぬ人のようにうつる、あの影に似ている。岩上の想いというものは影である。(串田孫一『山歩きの愉しみ』「岩上の想い」より)


夏…山だなぁ。とは言え、高山の夏はとても短い。7月も半ばになって雪が漸く少なくなる。道がしっかり出来てくる。しかし、8月下旬には早くも肌寒い秋の風を感じさせ、10月上旬には初冠雪を観る山が多い。後は、雪に閉ざされた世界だ。

雪山には何度か行ったことがあるけれども、それはもう、ホントに「閉ざされた」と言って良いような世界だった。晴れれば、青空に雪は煌き、冷気を含んだ風は、気持ち良くもあるが、ふと、周りの山々を見渡せば、雪の白と岩の黒だけが、織り成すモノトーンな世界。そして、少しでも天気が崩れると、岩山は地獄の様な様相を呈し、純白の雪は、悪魔と化す。そこには、生命感は少なく、ただただ、無限の世界が広がっているような恐怖がある。まぁ、そういうものも美しくないとは言えないのだけれども。

雪山に対して、夏山は生命感が溢れかえっている。草木は風に靡き、雪は解けて冷たい水を生命に与える。残雪の白、草木の緑、空の青、源流の透明感、黄、白、橙の花々!!派手な色合いではないけれども、その美しさは鮮烈で、見るものを感動に誘う。天国的な景色だ。しかし…そう、先にも書いたように、こんな風に山が微笑むのは、1年の中でもほんの一瞬。夏…山に駆り立てるのは、その一瞬の輝きの中に、身を浸したいがための人間の贅沢。

天国的な高山の山頂で、ぼんやりもの想う。そういう贅沢。串田孫一が言うように、幻影に近いような想いだけど、それは何物にも変え難いくらい、得がたい贅沢なのだ。だから、そう、何時からか、無駄なピークハントはしないようになった。

何千、何万の人が踏んだピーク。それに今更小市民の一足跡を残したところで、何の名誉になるだろう?何の自慢になるだろう?それより、ほんの一瞬の夏の輝きを満喫したい。山頂で長いことぼんやりとしていたい。名誉や自慢のためじゃなく、自分の憩いのために。

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マーラーの交響曲第6番…壮絶でドロドロなこの曲。なぜか、最近、新譜が多いような気がする。プレートルとか、ハイティンク(CSO)とか、ゲルギエフとか、エッシェンバッハとか、ジンマンとか…。全部買っているわけではないけど、凄くいい演奏が多い。このバブリーな状況、いつまで続くんだろう?今後も再発ではあるけれども、カラヤン、ラトル、ハイティンク(BPO)と続く。あー、ハイティンクは、もう買わないとなぁ…。全集になったらまとめて買うつもりだったけど、その夢が断たれた今となっては、買うしか…。

さてさて、そんな中、特に注目すべき1枚は、テンシュテット&LPOのライヴ盤ではないだろうか。EMIへ録音したスタジオ録音盤も名盤の誉れが高いけれども、今回出たライヴ盤も凄い。なんといっても、熱い!!とにかく熱い!!1楽章の冒頭部分の音質にやや難があるものの、そんなことは些細なこと。それ以上に音に怖いまでの不気味な迫力があるし、テンションも半端なく高い。壮絶な演奏。良いのか、このグロテクスさ、ちょいと危険領域。最近の新譜だとジンマンの透徹された演奏とは正反対の名演。

難を言えば、拍手がちょっと早いこと。熱狂しちゃったのはわかるけどさ。つか、拍手そのもの要らないよなぁ~。消せなかったのかな?


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のだめカンタービレ、秋からアニメで再びやるみたい。あと、映画もやるみたい。前編・後編に分かれていて、前編は今年12月19日、後編は来春に公開されるのだそうだ…そんなことをニュース記事で観た。なんかさ、ニュース記事でクラシックネタ見ると、ほんっっっっっっっっっと、冷や冷やする。オーケストラの名前間違えていたり、現実と著しく異なること書いてあったり、変にオーバーに書いてあったりしてね。今回は、内容が稚拙だったけど、まぁ、マシな内容でほっとした。マスコミってほんと、テキトー。

さてさて、ところでところで、のだめ映画、今回はムジークフェラインに乗り込んじゃうみたいだ。滅茶苦茶だな(笑)。しかし、現実は、漫画より数段奇妙なもので、ドゥダメル&シモン・ボリバル・ユース・オーケストラなんて、のだめオーケストラを数段超越した存在まであるんだから、世の中面白い。映画の方も負けないでもらいたいもんだ。ベルリン・フィルの音楽監督になっちゃおうよ。ドゥダメル、ロス・フィルの音楽監督になるんだから、これを超えるドラマはそれっきゃない。もちろん、モジャモジャ具合は、ドゥダメルにも、ラトルにも負けちゃだめだ(汗)。

オーケストラも本物のプロを使うらしくて、チェコの楽団を呼んだとか。チェコと言えば、チェコ・フィルだけど、どこの楽団なんだろうと思って調べたら、フラデツ・クラーロヴェー・フィルと言う楽団だった。知らん。チェコの楽団はそこそこ知っているつもりだったけど、この楽団はホントまったく知らない。CD…出しているみたいだけどね。彼らにしても、ムジークフェラインで演奏できる機会なんて滅多にないんじゃないだろか?

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