忍者ブログ
http://schunsou.blog.shinobi.jp/

カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[10/07 schunsou]
[10/02 F2]
[06/26 schunsou]
[06/24 F2]
[05/19 schunsou]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
schunsou
HP:
性別:
男性
趣味:
クラヲタ、登山
バーコード
ブログ内検索
過去の記事(Since2004.4)
カウンター
カウンター
アクセス解析
[57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67]
■ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

■ 山ガール

もう、やや古めの話なんだが、山ガールと言うのが出てきたらしい。

その呼称を聞いてふと思い出したのが、森ガール。以前、このブログでも書いた(
こちら)。で、まぁ、山ガールもこういったナチュラリストっぽい名を借りたシティ派なんだろうと思ったら、どうもそうではなさそうなんである。ホントに山に行く人もいるらしいのだ。「人も」ってのは、まぁ、山に行くファッションで街を歩いているだけの人も多いってこと。詳細はこちらこちら(R25の記事)。

うーん…おいらは、山で着るウェアは下界では一切着ない。山に行っても、登山口で着替えて、下山したらすぐにまた着替えてしまう。そんくらい、ハッキリ言って山用のウェアは嫌いなのだ。山中では機能性に優れているが、正直、下界で着たい服ではない。やたら束縛のきつい靴や靴下も大嫌いだ。しかし、それを好んで着て、履いて街を闊歩するって言うんだから、驚くよりほかない。お洒落なんだとか…、で、ファッション誌で特集を組まれちゃっているんだとか。今の時代バーバリーよりモンベルだぜ!とか。違うか…。

で、せっかく、登山用品を揃えたんだから、「山行こうぜ!」って言う山ガールが、山に向かい始めていると言うのだ。ちっとも気が付かなかった。そりゃ、そうだ。1年に1回しか行かないからね…。一応、ぼやいてみると、去年の飯豊連峰縦走のときは、一人もいなかった、そう言う女の子。つか、下山時にあっては、途中、3時間ほど人にも会わなかったけどね…。それと、R25の記事によれば、高尾山とか、丹沢しか行ってないみたいで、飯豊や日本アルプスまで足を延ばしている様子はない。

と言うことは、だ。1年に1回、夏に何泊かして山に行くおいらは山ガールに遭遇することはない、ってことだ。なんだ、おいらとは関係ない話じゃないか…。のだめの時も思ったんだよね。クラシック・ブームです、ってんで、おいらの時代がついに来たかと思ったんだけど、全然、違った。ブログの来訪者も伸びなかったし(そりゃそうだ、この内容では…)。ブームとマニアは相容れないってことか。あ、山はマニアじゃないけど。

まぁ、のだめにせよ、山ガールにせよ、きっかけはなんでもいいんで、クラシックや登山を楽しむ若い人が増えることはいいことだと思う。なので、おいらは大歓迎である。ただ、興味を持って何となく、山に登っているだけだと、丹沢、奥多摩の域を出ないので、どっかで日本アルプスに向かってもらえるような突破口があるといいな、と思う。

さて、では、そろそろ山ガールを見に…じゃなくて中高年の登山者に「やーねー、山ガールとか言って、最近の若い人は、何にも知らないで山に来るのよ。あ、ほら、あそこの男なんて、山ガールに釣られて来ているのよ。やーらしーわねー」と後ろ指刺されに行くか。

何をしたいんだ、おいらは…。


kanban.jpg












 

拍手[0回]

PR

携帯電話の待ち受け画面に星座占いが出る。毎日何とはなしに見てしまうんだが、昨日は、なんと、1位だった。「かっこいいとか、かわいいとか言われるかも!」と…それは下地がなきゃ無理じゃないか?とは言え、1位とは気持ちが良いじゃないか…!

が、しかし、昨日は首が回らなかった。ア○ムと武○士と…じゃなくて、寝違えて。今もまだ痛い。いつもイタいんだが、そうじゃなくって(汗)。せっかく星座占い1位なのにまるで楽しめない1日になってしまった。いや、そもそも1日中悶絶したのになんで1位なんだ?とか、まぁ、占いなので、真剣に怒らない。

さて、今日は、ちょっと前に買ったメユールの交響曲を聴いている。Warnerの廉価盤シリーズ、apexで再発となったミンコフスキ&ルーブル音楽隊による演奏。

メユールは、1763年生まれのフランス人作曲家で、パリ音楽院の創設メンバー。オペラで成功した人である。つか、古典派の頃の作曲家ってオペラありき。オペラが成功しなければ大成功することは難しかった。ハイドンなんて、今じゃ、全然オペラは評価されていなくって、実際、オペラの得意な作曲家ではなかったと思うんだけど、それでも結構たくさんオペラを書いている。モーツァルトだって一番力を入れていたのはオペラだった。そんな状況だったから、メユールも頑張ってオペラを書いて成功をおさめたのだろう。

でも、今日、古典派のオペラなんてモーツァルトとグルックの一部の作品を除けば演奏される機会なんて滅多にない。そして、古典派のたいていの作曲家は忘却の彼方へ…。メユールもそんな残念な作曲家の一人である。が、最近の物好きな演奏家の皆様のお陰で、録音がいくつも出ているようだ。

いま、ここに聴いている交響曲は第1番と同第2番であるが、交響曲は全部で4曲(加えて、未完の曲が1曲ある)あると言う。注目すべきは、交響曲第1番。これは…びつくりする。ベートーヴェンの交響曲第5番にそっくりなのだ。もう少し正確に言うと5番を古典派に退化させたような音楽である。1楽章から何となくベートーヴェンを感じるのだが、終楽章が激烈にベートーヴェンなのだ。「運命の動機」にそっくりな一節が頻出して、それが曲を支配し、盛り上げていく。ただし、ベートーヴェンよりも古典派色が濃く、流麗で聴き心地はいい。

作曲時期は、ともに1808年。初演は、ベートーヴェンが、作曲と同年でメユールが翌年。これは、もう、どっちがパクッたかは判らない。まぁ、どちらがパクッたにせよ、ベートーヴェンの作品は生き残り、メユールの作品は歴史の闇に埋没しようとしている。それが全て。とは言え、似ている駄作として捨て置くにはこれはこれでもったいないなぁ。


mehul.jpg






拍手[0回]


今年のウィーン・フィルの来日公演は、小澤征爾が降板になって…サロネン&ネルソンスになったそうだ。暴挙っぽい!(笑)サロネンは素晴らしい指揮者だが、日本じゃ、絶対人気ないと思う。しかも、ウィーン・フィル何回振ったんだ?ってくらい関係は薄い。ネルソンスにいたっては「だれ?それ」ってな感じだろう。

しかし、おいらは楽しみになった。行くべきじゃなかろか…。サロネン&ウィーン・フィルなんて現地でもそうそう聴けないだろうし、ネルソンスのような若輩がウィーン・フィルの指揮台に上がっているのだって、画的に面白そうだ。音楽的な相性はどうなの?という不安があるが、逆に興味深くもある。

曲目はサロネンがマーラーの交響曲第9番で、ネルソンスがドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』ほか。サロネンのマーラーと言えば、ベルリン・フィルにデビューした時の交響曲第3番が伝説的に語られているくらいだから期待していい。ネルソンスの『新世界より』ほかのプログラムは、名曲が来たことで、がっくりしている通の皆さんもいるかもしれないが、聴きなれた曲だからこそ、指揮者の能力を問われるところ。あまり知られていない指揮者でもあるし、名刺代わりにはもってこいだと思う。

てなわけで、両方とも行ってみたい。しかし、アーノンクールの演奏会も行きたいし、ゲルギエフの演奏会も行きたいし…経済的に辛すぎるところだよなぁ。サロネンは6月に聴きに行く予定だし、割愛するか…。いや、でもウィーン・フィルだぞ?こりゃ、悩みどころだ…。

それにしても、東京って凄いな。これほど世界中の一流オーケストラが集結する都市って世界的に見ても東京くらいなものではないだろうか。ムジークフェラインよりサントリーホールの方が実は多彩で豪華なコンサートが聴けると言う事実。

拍手[0回]


最近、珍曲案内っぽくなってきているなぁ、このブログ。一応、弁明しておくけど、マイナーな曲聴いているだけで、通になった気分になっているわけじゃないのだ。中2病患者だけど、そこまで痛々しくはないつもり。つか、そう言う感覚は学生の頃の早い時期に終えた。痛々しかったあの頃…黒歴史。

さて、そんなこと言いつつ、今日は、ヨハン・マルティン・クラウス。ま、マイナーだね(汗)。実は、前回の記事にもサラリと登場していたのだ。そう、古典派の作曲家。またかよ…って(汗)、ごめんなさい。古典派にはまっているからにしてこういう人が出てくるわけだけれども。

では、早速、本題へ。クラウスは1756年生れ、1792年没のスウェーデンの作曲家である。ここで「おやっ?」と思われる方も多いだろう。そう、モーツァルトと同じ年に生まれ、モーツァルトの没した翌年に没しているのである。ただ生没年が近かっただけではない。音楽修業の旅でウィーンに立ち寄った際、モーツァルトとも会っていたのではないかと言われている。また、モーツァルトとはフリーメイソン仲間であったことから、より深い仲であったことも想定し得る。

と言うわけで、安直にスウェーデンのモーツァルトと呼ばれている。しょうがない。残念だけど、しょうがない。クラウスはクラウスなのにね。やっぱ、モーツァルトが偉大すぎるのだ。

さて、北欧の作曲家と言うとシベリウスとか、ニールセンとか、グリーグを思い浮かべて、「あー、あの雰囲気ならいいな!」と思うんだけど、クラウスは北欧の作曲家以前に古典派の作曲家。だから、ちっとも北欧っぽさを感じさせてくれない。確実に、北欧音楽マニア向けではなくて、古典派マニア向け。ストックホルムのグスタフ3世に仕えていていたと言うだけあって、古典派の他の作曲家同様、王室向けの作曲も随分しているはずだ。

今回聴いているのは、コンチェルト・ケルンによる交響曲集。没後200年を記念してがカプリッチョに録音したもの。2種類あるんだけど、これがこのたびセットでお安くなって再登場した。僥倖也。

クラウスは前述の通り、古典派の作曲家なんだけど、この交響曲集を聴く限り、古典派の作曲家たちの大好きな「形式」に捉われない人だったみたいだ。響きからは確かに古典派の香りがプンプンしてくるんだけど、あの決まりきった結末をみるような居心地の良さはない。そう、毎回同じストーリーなのに『水戸黄門』を見てしまうあの中毒的な感覚がないのだ。例えば、シンフォニア・ダ・キエーザ。1楽章はまるっとアンダンテ・マエストーソ。2楽章がアレグロ・マエストーソ。で、終わってしまう。さらに、古典派の作曲家が大好きなメヌエットも、この交響曲集に収められている8曲のうち1曲でしか使われていない。加えて、8曲中3曲が短調の曲と来ている。明るく朗らかな音楽が大好きな古典派の作曲家とは思えない。

要するに、クラウスは没個性を良しとした古典派の作曲家ではなく、個性こそ偉大なロマン派の作曲家に近い感覚を持っていたのだと思う。そして個性を求めて試行錯誤した、その成果として残されているのが、ここにある交響曲なのだろうか。古典派の響きがあるとはいえ、どの音楽も表現力が豊かで、古典派の交響曲にありがちな淡々としたイメージは薄い。時にはもの悲しい調べを奏でるんだけど、こんな美しくも儚いメロディを書く古典派の作曲家ってどれほどいただろう?若し、この作曲家があと10年、20年生きていたらどういう風に成熟していったのだろうか。きっと、メジャーな作曲家にはならなかったとは思うんだけれども、聴いてみたかったなぁ…。

それにしても、コンチェルト・ケルン、ホント、良い仕事しているなぁ~。古楽系の楽団は、星の数ほどあるけど、これほど独特の活動をしている楽団はなかなかないのでは?しかも、上手いときているからたまらない…。


kraus-symphonies.jpg



 

拍手[0回]


これはクラシックを聴かない人たちには意外な話になるだろうが、クラシック音楽(定義は兎も角)とは、恐ろしく貪欲な音楽である。新しいジャンルの音楽が出てこれば、すぐそれを取り込もうとして、食指を伸ばす。例えば、20世紀におけるジャズや各時代における民謡の類がそうだ。作曲家たちは、新たな音楽表現手法をすぐに研究し始めて、自分の音楽に取り込んでしまう。そうして、まるで自分たちの音楽であるかのように作品を仕立て上げてしまうのだ。ラヴェルのピアノ協奏曲然り、ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』然り、である。

古典派におけるトルコ音楽の吸収もその代表的な一例だ。当時ヨーロッパに侵攻をしていたオスマン・トルコ軍が持ち込んだ音楽に、古典派の作曲家たちは魅了されたのだ。そうして好奇心の旺盛な彼らは自分たちの音楽にそれを取り入れ始めた。一番有名なのは、モーツァルトの『後宮からの誘拐(逃走)』だろうか。ストーリーが思い切りトルコを舞台にしているし、あのドンチャン、ドンチャン鳴るトルコ風の序曲の響きも強烈だ。とは言え、トルコ音楽に影響を受けた多くの音楽は、それほど聴き継がれることを念頭に置かれていなかった「古典派」の音楽だから、大抵は長い時間の間に風化した。

しかし、そんな楽しい音楽史を放っておく手はない!!と言うわけで…こんな(↓)CDを買ってみた。

『オリエントの夢』 コンチェルト・ケルン&サラバンド

コンチェルト・ケルンのアルヒーフ移籍第1弾として発売された企画もののCDである。古典派のスペシャリスト、コンチェルト・ケルンとトルコ音楽のスペシャリスト、サラバンドがタッグを組んで、18世紀後半のヨーロッパにおけるトルコ音楽ブームを再現した1枚。内容は、トルコ音楽から影響を受けた古典派の曲とトルコ音楽そのものをほぼ交互に収録したものになっている。

最初は、幻想的なトルコ音楽でスタートするが、2曲目に『後宮からの逃走』序曲が入り、賑やかになっていく。異国情緒あふれるエキゾチックな響きと屈託のない古典派の音楽が「楽しい音楽の時間」を作り上げていく。コンチェルト・ケルンの演奏も小気味が良い。

さて、ここで登場する作曲家…まず、モーツァルト、グルック御大、J.M.クラウス、そして、最後を締めくくるのがSussmayrのトルコ風シンフォニアである。Sussmayr…一瞬、だれ?って思った。Franz Xaver Sussmayr…ははは、ジュスマイアーじゃんね。モーツァルトのレクイエムの補作だけで有名な人。天才に依存する悲し過ぎる一発屋。レオポルド・モーツァルト、サリエリ等、モーツァルトがいたからこそ、後世に名前を残せた人の一人。モーツァルトの才能は自身だけじゃなくて、他人をも後世に名前を残してしまったのだ…。偉大なり。

で、このトルコ風シンフォニアが面白いのだ。もう娯楽に徹していて、とにかく楽しい。他の3人の音楽と比べると、まぁ、凡庸な才能だったのだろうが、トルコっぽさでは、誰にも負けていない。トルコの打楽器なんかも入っちゃって、なんともご機嫌な音楽である。モーツァルトのレクイエムを補作した人だと思うと、なんだか、がっかりしてしまう(笑)。おいらは、アンチ・ジュスマイヤー派になる(ウソ)。まぁ、なにはともあれ、前から聴いてみたかったジュスマイヤーの音楽が聴けて、思わぬ収穫だった。

…ところで、東洋っつうと、日本こそ究極の東洋だよなぁ。いや、だから、なにってわけじゃないけど、トルコが東洋か!!と…ぬるいな(笑)

dreamorient.jpg






拍手[0回]


最近のこのblogときたら、ルネサンスとか古典派とか(まぁ、時々、マーラーがあったとは言え)一般受けしそうにないものばかりだった。反省するべきである。クラシック音楽のブログと言えば…そうだ、もっとロマン派に力を入れなければならない!(偏見)

と言うわけで、今日は、ジョルジュ・オンスロウの交響曲を…。恥ずかしながら最近まで聴いたことのない作曲家だったのだけれども、古典派からロマン派に移るにあたり、そこそこ重要な作曲家のようだ。ベートーヴェン同様、初期の頃は古典派に片足を突っ込んでいたようだが、結局はロマン派の旗手的な存在となった。ベートーヴェンやシューベルトに似通った響きを持っているが、その名が示す通り、フランスの作曲家である。故に正確にドイツ・ロマン派とは言えない。しかし、グランド・オペラとサロン音楽全盛のパリでは、ウケは良くなくって、結局、ドイツで評価されている。“フランスのベートーヴェン”なんて呼び方があるように、正確にドイツ・ロマン派ではなくとも、彼の音楽を聴くにあたっては、ドイツ・ロマン派を聴くつもりでいればいい。もちろん、フランス音楽にありがちなエスプリってやつはどこにもない。

さて、交響曲だが、全部で4曲残している(多分)。現在、容易に手に入るのは、CPOから出ているゴリツキ&北ドイツ放送ハノーファー・フィルハーモニーぐらいだろう。で、おいらもそいつを聴いている。

おいらは、半分古典派くらいのつもりで聴いたんだが、そう言う心構えだとちょっと驚かされる。知悉していたと思い込んでいた近所に、隠れた名店があった…てな、驚き。ロマン派最初期と言えば、ベートーヴェンとシューベルトで語りつくされちゃいそうな時代であり、それで満足してしまっているおいらだが、見事に「んなわけねぇだろ」と突っ込みをいれられた感じだ。これが、スウェーデンとかなら、「うわっ!マニアックだなぁ」で終わるんだけど(とりあえず、ベルワルドには謝ろう)、ヨーロッパのど真ん中だと驚いちゃうんだ。未熟者なり、おいら。

4曲たらーっと流して聴いているんだが、これはもう、古典派の響きではない。見事にロマン派の響きだ。予定調和的な没個性をよしとする無難で居心地のいい音楽ではない。ドラマティックであり、他人と同じであることを良しとしない音楽だ。こういう音楽は貴族や富裕商人は好みそうにない。短調の曲も4曲中、2曲もある。中でも、2番の第1楽章の激情の渦巻く、ドラマティックな表現を聴けば、ロマン派の夜明けと暮れ行く古典派を実感することができるだろう。

上にベートーヴェンやシューベルトに近い響きのあると書いたが、正確にはベートーヴェンよりもシューベルトに近いと思うのだ。流麗な歌心なんかは、ちょっとベートーヴェン離れしている(ちなみに、おいらが聴いていてふと思い出したのは、シューベルトの交響曲第4番)。もしこの曲が、なんかの間違いでシューベルトの交響曲ってことになっていたら、今頃、大量のCDが出ていたろうに!ってほど、酷似はしていないけど(笑)。ドイツで評価されたとはいえ、フランスの作曲家なのだから、フランスの音楽家をはじめとして、も少し録音を出してもらえれば聴き比べができておもしろいんだけどなぁ。こういう珍曲の類は、誰かがやってしまうと、なかなか次の録音が出ないんだよねぇ。「初録音の快挙を逃した…。2番煎じはいやだ」となるんだろうか。

次は、オンスロウの残した作品の多くを占める室内楽を聴いてみたい。


onslow1.jpg







onslow2.jpg
 
 




拍手[0回]


少し前にギーレンのマーラーの交響曲全集を買った。何でって?安かったから。タワーレコードで13枚組4,000円弱。1枚当たり300円ちょっと。馬鹿みたいに安い。ギーレンに申し訳なくなってくる。とか言いながら、以前石丸で5,000円ちょいで出ていた時は、買わなかったんだよなぁ。おいらにとっては、4,000円弱がこの偉業に対する評価ってことなのか。ひどいやつだ…(汗)。ちなみに、アバドに続いて、マーラーの交響曲全集は2つ目。各曲はパラパラと持っていて、6番だけがやけに多くって10種類以上ある。

で、さて、ギーレンのマーラー。まだ少ししか聴いていないんだが、これ、良いんじゃないか。安いのに。ギーレンって言うとゲンダイ音楽のスペシャリストなわけで、なんかこう、冷徹に曲を解剖してさめざめと聴衆に提示してきそうな、白けた印象がある。だけどそれは偏見。モーツァルトだってそんなことはなかった。

確かに、冷静で分析的な一面があるけれども、冷めているわけではない。オーケストラは指揮者同様現代音楽のスペシャリスト南西ドイツ放送響。だからにして、少し堅いと言うか、冷たい感じのするサウンドだけれども、歌うところは確り歌ってくれて、これがなんとも美しい。透明感のある歌心とでも言えばいいのだろうか。重厚に鳴っているし、全体的に引き締まった印象も強い。癖になりそうなサウンドだ。暫くは、マーラーを聴くときのスタンダードはこの全集にしようと思う。録音も鮮明で素晴らしいと思う。

mahler-symphonies.jpg





 

拍手[0回]


昨日紹介した、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書/1995年)によれば、ルネサンス音楽はそれまでの音楽とは、次のような違いがあると言う。

「「生きていていいのだ、生きて美しい音楽を楽しんでいいのだ」という安心感―これがルネサンス音楽の特徴である。実際、ルネサンスの音楽は、どれも息を呑むほど「美しい」。」(P.34)
「…中世と比べた時のルネサンスの大きな特徴の一つが、大量の「作曲家」の出現である。」(P.42)

要するに、音楽を本格的に楽しみ始めた時代であり、作曲と言う行為が芸術として認識されはじめた時代であると言う。それまでの作曲家は神を讃えるための道具を作る職人的な扱いで、名前が残っている人は、たまたま記録として残っているか、マショーのように自己意識の強い特殊な人だけであった。そう言う意味では、音楽が大きく現代に近付いた時代であったと考えられる。

神への畏れ、神々の響きから音楽が解放された、正に音楽が生まれた時代、それがルネサンスである。そして、この音楽は生まれたて故に、汚れを知らず、極端に無垢である。そのあまりにも純粋な響きは、「息を呑むほど美しい」のだ。その響きは後世のいわゆる「クラシック」では失われてしまっている響きなのだ。クラシックは音楽が大人へと成長した音楽であって、ルネサンスは音楽がまだ純真な子供の心のような音楽、といえるかもしれない。故に、どうにも成長しきった音楽を知っている我々には逆に受け付け難い場合もある。

さて…前振りが長くなったが、ちょっと前に紹介したスティレ・アンティコのCDを更に買った。今日紹介するのは『天上のハーモニー』と題された1枚。イギリス・ルネサンス音楽の大家トーマス・タリスとウィリアム・バードの音楽をおさめたものだ。正にルネサンスならではの美しい音楽を満喫できる1枚と言っていい。タリスの曲は「大司教パーカーのための9つの詩篇」と言う曲で、これはヴォーン・ウィリアムズのタリスの主題による幻想曲の元ネタとなった曲である。この9つの詩篇とバードの曲が交互に収録されている。

タリスの方は、それぞれが大変短い曲で、バードの方が長い曲ばかりである。だから、バードの音楽の方が主体でタリスの音楽が間に挟まっているって感じだ。なんか、こう、それってどうなの?って作り方だけれども、これがなんとも絶妙なのだ。それぞれ単体で演奏されるよりもずっと味わい深くなる。ともすれば、没個性的とも言えるルネサンス音楽だが、こうして並べて演奏されるとそれぞれの良さが浮かび上がってくる。もちろん、今回もスティレ・アンティコの歌唱はやはり素晴らしい。

ルネサンス音楽入門にも良いかもしれない…が、SACD故に高い。harmonia mundiの録音は相変わらず素晴しく、こういう高音質で聴くルネサンス音楽は極上なのだが。


heavenly.jpg






拍手[0回]


「…ポピュラー音楽の多くもまた、見かけほど現代的ではないと私には思える。アドルノはポピュラー音楽を皮肉を込めて「常緑樹(エヴァーグリーン)」と呼んだが(常に新しく見えるが、常に同じものだと言う意味だろう)、実際それは今なお「ドミソ」といった伝統的な和音で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエスプレシーヴォで歌い、人々の感動を消費し尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ、「感動させる音楽」としてのロマン派の、20世紀における忠実な継承者である。」(P.229より引用)

自分の聴いている「クラシック」と呼ばれる音楽は何なのだろうか。安易に、「クラシック」が好きとか、嫌いとか言うけれども、「クラシック」とは実に茫漠として捉えようのない括りである。どこからどこまでが「クラシック」なのか、「クラシック」となるための要件はなんなのか。この音楽を聴けば聴くほど、それは判らなくなっていく。だから、実は、おいらは「クラシック」と言う呼び方は好きではない。便宜上使っているが、好んでいるわけではない。いったいそれは何なのだ、と疑問を持ちながら、音楽を聴き、このブログも書き続けているのだ。

そんな、おいらが最近興味を持って読んだ本が、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書/1995年)だ。冒頭の一文はこの本の、最終章から引用したもの。多くの「クラシック」を聴かない一般の人たちは「クラシック」と言う括りが明確にあって、壁を作ってその中に閉じ込めたがる。そして、十把一絡げに「高尚」にして「癒し」の音楽だとする。しかし、その壁を取っ払って、ポピュラー音楽も「クラシック」も同じ西洋音楽として捉えると、なるほど、ポピュラー音楽は「クラシック」中の「クラシック」であるロマン派の流れを汲んでいることに気付かされる。これはちょっとした発見だ。

一般的な当たり前を言えば、ロマン派から「クラシック」を受け継いでいるのは、シェーンベルク、ブーレーズと言った前衛的な作曲家、或いは、ケージたちによる実験音楽、そこから派生したミニマル・ミュージックだろう。しかし、これらの音楽はもはや、それを構成する仕組みが、まるで別物になってしまっている。伝統的な和音や音階を捨てリズムを捨て、新しい方向を模索して、大衆から離れて行った(ミニマルは近付いているかもしれないが)。しかし、ポピュラー音楽は、バロックからロマン派にかけて確立された音楽手法を頑なに守り、大衆に感動を訴えかけ続けている。そこに調性があって、何分の何拍子と言うのがあるのは当たり前で、奏者たちはそのことを疑うこともしない(と思う)。

逆に古い方に目を向けてみると、今度は、ルネサンス音楽と言う存在が暗闇から浮かび上がってくる。バロックの前の時代だ。この頃もまた、調性も何分の何拍子と言うリズムもなかった。そう言ったものが、きちんと出来てくるのは、ルネサンス末期からバロック前半だと言う。だから、ルネサンス音楽を聴けば、いわゆる「クラシック」の代表的存在であるロマン派とは全く違う響きを持っていることが、すぐに判るだろう。

この時代を「古楽」と呼ぶ。バロックは過渡期的であるが、それ以降からロマン派の音楽を「クラシック」、シェーンベルク、ブーレーズ、ケージ等が「現代音楽」である(本書ではそう位置付けている)。「クラシック」の時代は100年ほど前に終わったのだが、唯一、「クラシック」を引き摺っているのがポピュラー音楽ってわけだ。一般的に「クラシック」仲間だと思われがちなルネサンス(古楽)とロマン派よりも、別物と思われがちなポピュラー音楽とロマン派の方が近しい音楽なのだから常識がひっくり返る。

こうしたことは、西洋音楽史をひも解いてみないと見えてこない。よく「クラシックだって昔はポップスだったんだよ」と言う人がいるが、なかなかピンと来ない。本書は、西洋においてそれぞれの時代の音楽がどういう人にどういう風に聴かれ、変貌を遂げて行ったのか、歴史を語る上で一見タブーに思われがちな主観的に語ることを敢えて避けず、興味深い考察とともに歴史の事実を明瞭に述べている。なるほど、「クラシック」だってポップスだった時代もあればそうでない時代もある。また、同じ時代でも、ポップスのように聴かれた音楽とそうでない音楽があったこと、それは当たり前のことなんだけれども、改めて気付かされるのだ。

seiyouongakushi.jpg









拍手[0回]


CDデータ化、始めてから2か月以上が経過していたんだなぁ~。一つの区切りとなる目標の1,000枚まであと少し。GW中には1,000枚超えを果たしたい。今は、DHM50周年記念盤を処理中。長い、ひたすら長い。こいつを処理し終われば、1,000枚はすぐ。

それにしても、一体何枚あるんだろう?それも、この作業が終わればはっきりする。だけれども、いつになったら終わるのやら…嘆かわしい(笑)。まぁ、何となく、半年かな?とは思っているんだけれどもね。

ちなみに、2,000枚は確実に超えると思うんだが、この2,000枚と言う数字、1日1枚買い続けても、5年半かかる。1枚60分として、1日中流しても2カ月半続く。まぁ、こういう計算はあんま意味ないんだけどねー。1日中流さないし(笑)。

拍手[0回]

忍者ブログ [PR]
ブログランキング・にほんブログ村へ
Powered by 忍者ブログ  Design by © まめの
Copyright © [ 音楽雑記&四方山話 ] All Rights Reserved.