忍者ブログ
http://schunsou.blog.shinobi.jp/

カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[10/07 schunsou]
[10/02 F2]
[06/26 schunsou]
[06/24 F2]
[05/19 schunsou]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
schunsou
HP:
性別:
男性
趣味:
クラヲタ、登山
バーコード
ブログ内検索
過去の記事(Since2004.4)
カウンター
カウンター
アクセス解析
[56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66]
■ [PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


タリスと言えば、ヴォーン・ウィリアムズのトマス・タリスの主題による幻想曲。圧倒的にこの曲が有名。本人の曲じゃないのに…ね。で、この曲のお陰で、随分、有名になった、と言うのは確かなんだが、ルネサンスの作曲家ではそれでなくてもだいぶメジャーな存在なのだ。まぁ、ルネサンス音楽は「誰でもどこかで耳にしたことのある音楽」と言うのは絶無に近いので、ルネサンスではメジャーとは言え、タリスの音楽も有名曲はない。少なくても一般人レベルではない。

とは言え、クラヲタ的には随分と興味深い曲もある。その一つが40声のモテット『我、汝のほかに望みなし』である。40声って…どんだけだよ。8人×5声ということだが、常人の耳では一つ一つのパートを聴きとることは難しい。でも、40声が混然と歌いあげられると、こうも重厚かつ、壮麗に鳴り響くものかと、ただただ唖然とさせられる。声の力って凄いなぁ、と思わされる逸品だ。この凄味はオーケストラでは出せないし、ましてや電子音では…。ちなみに、この曲はエリザベス1世の40歳の誕生日に捧げられた曲だそうだ。

今聴いているCDはハリー・クリストファーズ&ザ・シックスティーンによるもの。COROと言うザ・シックスティーンの自主製作レーベルからリリースされている。録音は、当然、教会。残響が美しい。この演奏も素晴らしいが、ふとローザンヌ声楽アンサンブルでも聴いてみたいと思うのは、ラ・フォル・ジュルネの影響だろうか。あまり、ルネサンス音楽を演奏したと言う話は聴かないんだけど、録音がないだけかなぁ?ちなみに、ザ・シックスティーンとか、タリス・スコラーズとかはルネサンスのスペシャリストってイメージ。いつか、教会で聴いてみたい。東京なら東京カテドラルかな?

tallis-speminalium.jpg






拍手[0回]

PR

今日は、シューマンの誕生日。ちょうど200年前の今日、シューマンが誕生した。あ、ちなみにシューマンと言ってもウィリアムではないぞ(ウィリアムはSchuman、ロベルトはSchumannという違いもある)
…ってこのネタ、前にも書いたような。ウィリアム・シューマンの誕生日は8月なのでもう少し待とう。こちらも生誕100周年。要するに、100年ごとに著名な作曲家シューマンが誕生しているのである。2度あることは3度あるのか?今年生まれるシューマンにも大いに期待をしたいところ。なんなら、日本人でも子供が生まれたら、秀満なんて命名すれば著名な作曲家に育つかも(ムリか…汗)。

こうしたアニヴァーサリーの肝心な記念日は見事にスルーしまくるおいらだが、今回は偶然気が付いた。これは僥倖。と言うわけで早速、CDを聴いている。ミケランジェリの演奏で『謝肉祭』。シューマンはあまり熱心に聴いている作曲家ではないんだけれども、この曲は大好きだ。可愛らしい表情がそここことなく散りばめられていて、軽くお伽の国に迷い込んだような錯覚すら覚える。シューマンのファンタジック・ワールド全開。何と言う楽しさ、美しさ!!30分程度の曲に、細切れに20ほどのタイトルが付けられ、目まぐるしく曲想が変わっていく。支離滅裂な感じがするんだけど、これを幻想的と捉えてしまえば、それは魅力になる。ついて行けなければそれまでだけれども。

この曲、聴いていて、「そうだなぁ、もうちょっとシューマン聴こうか…」とも思っている。特にピアノ曲。今年は、ショパン・イヤーで全面的にショパン万歳な状況だけれども、個人的にはシューマンの方がまだ興味があるかも。あ、そう言えば、CASCAVELLEからシューマン・ボックスが出るので、買おうかと思っている。適当に詰め合わせた感がなく、魅力的な音源も満載。アルミン・ジョルダンの『楽園とペリ』は未発表音源とのこと。これで7枚組3,000円以下なら絶対に買いだと思う。


schumann.jpg







 

拍手[0回]


アンモナイト増殖中…うん、harmonia mundiのことだ。いつの間にか、最後にFRANCEとは付けなくなったらしい(でも、便利なのでHMFと略す)。もうdeutsche harmonia mundi(DHM)と区別しなくてもよくなったのか。あ、そうか、DHMにもちゃんとdeutscheと入っているから、敢えて両方に入れる必要がなくなったのか。

DHMはBMG傘下(今はSME)になったけれども、HMFは今もちゃんと独立して頑張っている。ちなみに、もとは同じレーベルなので、信用度70%の超便利なインターネット百科事典Wikipediaの「両者に関係はない」みたいな表現は御幣を招く恐れがある。両者に関係はないっちゃないが…。

もとは同じレーベルだからにして、方向性も似通っている。クラヲタにとっては、太陽が東から昇るのと同じくらい当たり前のことだが、共に古楽をメインに置いたレーベルなのである。しかし、DHMの方がSMEの古楽分野担当として立場が明確なため、その方向性は徹底している。そして、アーノンクール、レオンハルト、クイケンら古楽界のスターを擁しているのもDHM。でも、おいらの所有で増えて行くのは、HMF。別にDHMが嫌いなわけじゃないんだけれども、欲しいCDはHMFの方が多い。

昨今、軽く古楽がマイブームになってきて、尚更その傾向は強くなっている。正直言って、「古楽って演奏者とかあまり知らないからHMF買っておけばいいや」と言う投げやりな思考も無きにしも非ずだ。クラシック初心者に「とりあえず黄色いやつ買っとけばいいよ」と言うのと同じである。それで、高確率で良いCDと出会えるんだからHMFは便利なレーベルである。未知の名演奏家とも出会える。スーパースターはいないんだけど、ポール・オデットとか、アンドリュー・ローレンス・キングとか、地味に凄い演奏家もいる。

あと企画が素晴らしい。好奇心をくすぐる企画が盛りだくさんなのだ。ルネサンス音楽のオムニバスを作るにしても、単なる有名曲集に陥らない(いや、ルネサンスに有名曲がどんだけあるか…は不明だが)。きちんとしたコンセプトに基づいて作るからちぐはぐなことにはなり難い。だから、聴いていて心地が良い。内容を確認して聴く気になる。

ジャケットも美しい。廉価盤シリーズのmusique d'abordはいまいちだが、通常盤は良い。古楽系のCDは昔の絵画を用いたものが多くって、一見、ベタなクラシックCDのジャケットなんだけど、内容と見事にマッチしていて、“CDを持っている喜び”を感じさせてくれる。“ジャケ買いはあたりが多い”と言うのは、第一印象で人の評価の多くが決まるのと同じで、あながち馬鹿に出来たものではない。だから、HMFのようなCDの作りは良い気分でCDを聴けると言う長所もあるのだ。

こうして今日もポチッと…CDが増えて行く。


hmf.jpg





 

拍手[0回]


昨日のコンサートでちょっと気になったことがある。それは、楽器の持ち込みである。

昨日はヒラリー・ハーンが出演すると言うことで、ケースにサインをしてもらうためか、ヴァイオリンを持ち込んでいる人が多かったようである。が、あれ、楽器って、クロークに預けられないんだろうか?座席の下にでも置いているんだろうけど、邪魔じゃないか?お隣に迷惑はかからないのか?そもそも音響的に問題あるんじゃないか?ヴァイオリンケースの中は意外と遮音されているのだろうか?入ったことないから知らないけど(汗)。などなど、気になったんである。ヴァイオリンの先生に訊いてみよう!

ちなみに、西洋かぶれなことは言いたくないんだが、ウィーンでは見なかったなぁ、楽器の持ち込みしている人。ハーンが出ているコンサートでも。ロスアンゼルスはそもそもそんな高そうなものを持って歩くことの方が危険だから、当然いなかったけど(汗)。実際、ロス・フィルがストラディヴァリ盗まれて慌ててたこともあったし。

拍手[0回]


ヒラリー・ハーン、サロネン&フィルハーモニア管弦楽団の来日コンサートを聴く。

えーと、ハーン、おいらと同年代。いいっすね、同年代の活躍を見ると言うのは。だからって、わけじゃないけど、今年2回目のコンサート。1回目はコンツェルトハウスでドゥネーヴ&ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団とプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番。このときは、前から3番目ど真ん中と言う、ハーンを聴くには最高のポジションだったが、今日は17列め。ちょい遠くなったが、オーケストラ聴く分には近過ぎるより良いと思う。

サロネン&フィルハーモニア管弦楽団も2回目。前回は…サロネンが39歳の時だったから10年以上前のことか。あー、おいらも10代だったのか。大学入った年だ。懐かしい。取り敢えず、年寄りくさく、昔は良かったと言っておく(テキトー)。このときは、ドビュッシーの牧神の午後への前奏曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(ムローヴァ)、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』だったと記憶している。東京芸術劇場で、S席でも今回の半額程度だった記憶があるが…覚え間違いだろうか。とは言え、今回でもそう高くないけど。

さて、今回の演目は…

サロネン:へリックス
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲
シベリウス:交響曲第2番

と、まぁ、オーソドックスなもの。冒頭にゲンダイ音楽持ってくることって結構多いし、サロネン自身が作曲家なのだから、1曲目の選択は頷ける。

で、さて、このへリックスと言う曲なのだが、名前しか聞いたことなかった。L.A.ヴァリエーションとか、サロネンの曲は名前だけは聞いたことがあるんだけど、何となくめんどくさそうなイメージがあって、敬遠してきていたのだ。しかし、へリックスは実に聴きやすい。プログラムの解説によると、最近のサロネンは、昔と違って、聴きやすい曲を作曲するようになったんだそうだ。へぇ。ゲンダイ音楽にさほどアレルギーないんで、買いたくなった。(←自重しろ!)

へリックスの次はいよいよチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。1楽章が始まり、ソロが入ってくる…ゾクッとするほど美しい。抑制の利いた演奏だ。もちろん、オーケストラともに、である。この曲は、ロマンティックなメロディが溢れかえっているロシア音楽ってことで、兎角、濃厚な味付けの演奏が好まれる傾向があると思うんだけど、今回のコンサートは、ものの見事にその逆をいくもの。メロディに溺れずに端正に曲を仕上げていく。情熱をグッと内に秘めて、無駄に迸らせない。一気呵成に盛り上がっていくところも、じっくりと構えて激しく弾き鳴らすようなことはしない。こうやって細部まで明瞭に演奏されると、「あ、こんなところにこんな聴きどころがあったのか」と見逃していた魅力に気付かされることがある。

2楽章も、同じ傾向だ。透明感のある音が、哀愁の籠ったメロディを冷ややかに包み込んでいく。とてつもなく美しい。3楽章はフィナーレだからにして、ハーンの切れ味のよいヴァイオリンが冴えまくる。と言っても、これも濃厚なロシア音楽とは全く違う路線だ。恥ずかしげもなく盛り上がる大抵の演奏とは違う。

と言うわけで、一風変わった演奏だったけど、大変素晴らしい音楽体験をすることができた。まぁ、ハーン&サロネンのコンビで、一般的な名演を期待したら間違いでしょう?

休憩を挟んで、シベリウスの交響曲第2番。名曲。通俗だぜ…と批判するなかれ。名曲は名曲なのだから。こちらも素晴らしい演奏だった。まぁ、サロネン、フィンランド人だしね。「ゲンダイ音楽が得意なんです、好きなんです」と言っても、「フィンランド人ならとりあえず、シベリウス聴かせて!」ってことで、シベリウスは否応なく十八番になっているはず。更にフィルハーモニア管弦楽団とは、ストラヴィンスキーの歴史的録音などサロネンにとっては昔からの馴染みの楽団。と言う盤石の布石で、当然の名演だったわけだ。チャイコフスキーの鬱憤を晴らすかのようにパワフルで、それでいて何となく、冷やりとするものを感じたのは、サロネンだからだろうか、フィルハーモニア管だからだろうか。

アンコールも充実。やっぱ、ハーンのJ.S.バッハは良いなぁ。無伴奏全曲出さないんだろか?

コンサートの後はサイン会。一応、サイン会がありそうだと言う情報は得ていたんだけど、まさか、サントリー・ホールでホントにやるとは…。おいらは今まで一度も、こんな席数の多いホールでサイン会に出くわしたことはない。案の定長蛇の列。でも、もらってきた。ハーンとサロネンのサイン!ハーンの分は、みんな、出たばっかりのチャイコフスキーのCDにサインしてもらっていたけど、おいらはお気に入りのバーバーのCDにサインをしてもらった。サロネンの分は、何となく、指揮者がサイン会をすると言うイメージが湧かなくって、準備するのを忘れた。やむを得ずリンドベルイのCDを現地調達。国内盤しか売っていなくて高かった…痛。

ヴァイオリンケースにサインして貰うって手もあったけど、紛失したらハーンのもとに届いてしまいそうな気がしたのでやめた(んなわけないw)。

そんなわけで、帰りは遅くなっちゃったけど、充実した
夜だった。満足、満足!っと。

hahn-barber2.jpgsalonen-sc.jpg






 

拍手[0回]


行ってしまった、秋葉原。CD買いに。GWくらいから買ってなくって、このまま6月を迎えようかと思ったんだけど、集中力が途切れた(集中力…要らないかw)。もちろん、目的地は石丸電気ソフト館。相変わらず、店の前に謎の集団が列をなしている。いや、謎ではない。薄々とはなんなのか気付いているのだが、さて、具体的に何なのか分からない。並んでいるのは男ばかり。おいらと同じくらいの年代の人も随分といる。秋葉原だからね。だって、秋葉原だから。

この行列は、どうも店内にもいるらしくて、落ち着いた風を装っている(!)クラシック・コーナーにも男たちの浮かれた声が聞こえてくる。上からも、下からも…。

こうして売り場の音を気にしだすと、もう一つ気になることがある。クラシック・コーナーで流している音楽だ。お勧めしたいソフトが色々あるのは判らないではないが、色んなソフトをいっぺんに流し過ぎである。あっちのDVDからはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、こっちのDVDからはチャイコフスキーのピアノ協奏曲、で、店内にまた別のCDを流している。「あ、この録音いいな!」と思う可能性を限りなく引き下げてしまうやり方ではないだろか。

さて、それはともかく。今回、石丸に行ったのは、目的のCDがあったから。結局、1枚たりともおいていなかったと言うことで、軽く敗北っぽい感じなんだが、まぁ、大抵はそう言うことになるので、たいして気にしてはいない。あったとしても、実物を手にしたら、「いらねっか…」ってなることもあるし、あまりマークしていなかったCDが「これいいんじゃないか?」となることもある。そもそも、何の予定もせずにCDショップで良さげなCDを見つけて買った場合、意外とあたりになる場合が多い。音楽の良し悪しって、聴き手の気分に左右する部分が多いわけだから、今聴きたいと思ったCDを帰ってすぐ聴けると、そりゃ、まぁ、気分が乗っているから、良く感じるものだ。

で、今回の“あたり”は、『妖精の騎士』と題された1枚。サブタイトルに「ルネッサンス期イングランドのバラッド(歌)と舞曲」とあるように、古楽である。古楽と言うと、さも古臭い音楽を聴いているように思われるが、この先入観は、古楽のCDを聴くと軽く裏切られる。楽譜のない時代、楽譜があっても、正確に再現することが難しい時代の音楽は特にそうだ(中世、ルネサンス音楽の多くがそう言うことになる)。一体、どの楽器でどういうリズムで演奏したら良いのか、検証しながら演奏されるため、演奏団体によって全く別の音楽になってしまうことも十分にありうるのだ。

そして、それらにたぶん正解はない。と言うか、そもそも正解は存在しない。同じ曲でも、正確に伝える技術がなければ、時代や場所によって随分と違う形式で演奏されていたと考えられるからだ。よって、古楽を演奏する場合、それは奏者の解釈に大きく頼るところとなるわけだ。再現性を追い求めているのか、個性を押し出すのか、何れにせよ、個々の音楽性に頼ることになるため単なる古臭い音楽にはならないのだ。じゃぁ、それは古楽とは言わないんじゃないか、と言われれば、それはそうではない、と言うところが面白いんである。

とちょっと、最近読んだ何冊かの本から得た知識で軽くシッタカをしてみたが、古楽の知識は浅薄だ。

それで、話を戻そう。えーと、そうそう『妖精の騎士』である。サブタイトルにあるようにルネサンス(15~16世紀)期にイングランドで歌われていた世俗曲である。スカボロ・フェアとか、グリーンスリーヴスとかは今でもポピュラーなメロディだろう。スカボロ・フェアはサイモン&ガーファンクルによって一躍有名になったわけだけれども、ここに収められているスカボロ・フェアはこれとはだいぶ違う版。詳細は割愛するが(興味があったらググって欲しい←なげやり)、サイモン&ガーファンクルの原典の更に原典くらいの音楽だ。ちなみに、タイトルの妖精の騎士と言うタイトルは、ある歌につけられたタイトルなのだが、この歌にはいくつものバージョンがあって、そのうちの3曲がここに収められている。実は、スカボロ・フェアも妖精の騎士のうちの1バージョン。なので、ほかの2曲と歌詞が似通っている(具体的には、「パセリ、セージ、ローズマリ、タイム」と香辛料(ハーブ)を列挙するくだりなど。微妙に異なるのは口承ゆえの混乱)。

スカボロ・フェアにしても、グリーンスリーヴスにしてもそうなんだが、ここで聴く音楽は何と新鮮なんだろう!だから、古楽は古臭くない!と思わせてくれるものだ。グリーンスリーヴスは、ヴォーン・ウィリアムズが随分と瞑想的で美しい幻想曲に仕立て上げてしまったせいで、静かな曲と言うイメージが刷り込まれてしまっていたが、ここではノリノリの恋愛歌だ。酒場で陽気に歌って手拍子でも入れていたのだろうか。と、古き時代に思いを馳せるのだが、まるで今まで聴いたことのない響きだもんだから、新しい。スカボロ・フェアもなんとメランコリックで美しい音楽なんだろうか。

おっと、まだ奏者を紹介していなかった。メインはヨエル・フレデリクセンと言うバス&リュート奏者。そう、歌いながらリュートを弾くんである。凄い渋い声なのに透明感があってむっちゃカッコいい弾き語り。容姿もこれらの曲を歌って歩いていた吟遊詩人っぽくって◎。彼の周りで盛り上げているのは、アンサンブル・フェニックスと言うフレデリクセンの創設したミュンヘンの楽団。曲によってはテノールやカウンター・テナーも入って大いに盛り上げる。特に、Lord Darlyでの3人の歌手の掛け合いは実に楽しい。

またひとつ素晴らしい古楽の世界を知ることができた。猛烈にお勧め。

最後にグリーンスリーヴスについて、雑学めいた知識を紹介しておく。このグリーンスリーヴス、要するにそのまんま「緑の袖」と言う意味なんだけど、これは草叢で寝転んで袖が緑に染まる、と言うことだそうだ。転じて、娼婦のことを指すと言う。昔の絵画で緑の袖の女性を見かけたら娼婦を描いたものだと理解していいのかもしれない。

frederiksen.jpg






 

拍手[0回]


あのNAXOSが本を出している。その名もNAXOS BOOKS。海外のレーベルだからにして、基本、英文の本なのだが、有り難いことに、このたび、DISCOVERと言うシリーズが和訳され、新書版で学研よりリリースされた。このシリーズは、西洋音楽史をざっくりと追いかけたもの。Ⅰはバロック以前の音楽(中世&ルネサンス)、Ⅱはバロック、Ⅲは古典派、Ⅳはロマン派、Ⅴは20世紀音楽となっている。大まかに分けた西洋音楽史の5つの区分ごとに1冊を割り当てたかたちだ。ⅠとⅡは4月に出ており、ⅢとⅣがつい先日出たところ。Ⅴはないっぽい。無念。

おいらは、先日読んだ、『西洋音楽史』(岡田暁生著/中公新書/1995年)に続けて、西洋音楽史をも少し掘り下げて知りたくて、本屋をうろついて見つけた。『西洋音楽史』に比べて、単純に5倍のボリュームになったと言うわけではないが(DISCOVERシリーズは紙が厚く、画が多くページ数も少ない)、一つの時代に1冊割り当てているだけあって、入門書ながらそこそこ内容は濃い。音楽史だけではなく、音楽史に大きな影響を与えた政治的、宗教的な歴史も的確に紹介されている(『西洋音楽史』でも、もちろん書かれているが、より詳細である)。

さて、今、読み終えたのは、Ⅰ(『西洋音楽史Ⅰ』(ルシアン・ジェンキンズ著/小林英美、田中健次監修/松山響子翻訳/学研パブリッシング/2010年)。前述の通り、中世・ルネサンスの音楽がその対象。著者は古楽専門誌を立ち上げたり、オックスフォード大学で教鞭をとる古楽の専門家である。『西洋音楽史』の岡田暁生氏は特に古楽の専門家と言うわけではないので、一歩踏み込むと『西洋音楽史Ⅰ』に分がある。ただ、逆に専門家ではないが故に『西洋音楽史』の方が判りやすい一面もある。

内容について言えば、『西洋音楽史』でも著者が冒頭で主観性を否定しなかったが、『西洋音楽史Ⅰ』もただ客観的に音楽史を追っているだけと言うものではない。中世・ルネサンスと言う時代は古すぎるが故に謎めいた部分が多いが、そこに著者なりの客観的であったり、主観的であったりする考察を提示することもある。なるほど、古楽の専門家ならではの見識だ、と納得させられ、興味深く読み進めることができるのだ。そして、謎だらけだから面白い古楽の楽しみを教えてくれる。どんな楽器でどんな場所で、どんなテンポで演奏されていたか判らない音楽について、ワクワクしながら想像を巡らすと、音楽の楽しみの他に、歴史のロマンも感じることができるのじゃないか、と。

また欲しいCDが増えてしまうじゃないか!と文句も言いたい気分だ(笑)。

ちなみに、NAXOS BOOKSだけあって、音源の紹介も忘れていない。専用のホームページにアクセスして、パスワードを入力すると音楽を聴くことができる。下手にCDが付いていると邪魔くさいだけなので、有り難い方法だ。

discover1.jpg










拍手[0回]


現代にモーツァルトやベートーヴェン、ブラームスのような音楽家は出現しないのか?いや、もう出現していて実は気付いていないだけなのだろうか?何百年も後には、結構聴かれているんだろうか?音楽を聴くようになってから今まで、そんな疑問を持ち続けていた。今、自分の中で納得のいっている説を色々なものからの受け売りを交えつつ、小生意気な考察をしてみる。

まず、この疑問について、ちょっと前のこのブログでクリストフ・フォン・ドホナーニの興味深いインタビューを紹介したことがあるので、以下に再掲しておこう。

Q.(21世紀に)20世紀から残っていくもの(音楽)は?
A.20世紀前半からは、数多くのものが残るでしょう。後半の方が、同時代人としては判断が難しいですね。第2次世界大戦後に書かれたもので、私から見て本当に強力な持続性を持つと思われるものはとても限られていたと現時点では申しておきますが、的外れになるかもしれません
(『指揮者が語る!』D.D.ショルツ著/蔵原順子、石川桂子訳/アルファベータ/2008年より抜粋)

自信なさげだが、この見識は正しいと思う。

これまで西洋音楽は中世からルネッサンス、ルネッサンスからバロック、バロックから古典派、古典派からロマン派へと新しい形を求めながら華麗に、発展的に進歩してきた。そして、たぶん、ほぼ完成形に近付いたのがロマン派の音楽だ(だからと言って、単純にロマン派の音楽が、ルネサンス音楽よりも優れていると言うわけではない)。

しかし、近現代の作曲家はさらなる変貌を音楽に求めた。それが、印象派や新古典主義、新ウィーン楽派と言った、20世紀初頭の音楽だ。これらは、ある程度の成功を収めたが、ロマン派や古典派のような大きな潮流を作るほどではなかった。そして、これらの楽派の後を受けた戦後音楽は、更に試行錯誤を始める。こうして、20世紀後半、戦後の現代音楽は「強烈な持続性を持つ」大きな流れを失っていった。

これまで西洋音楽が成功してきた、次時代への華麗なる転換を20世紀初頭に敢行して、「失敗」したのである。ロマン派と言う偉大なる前任者への挑戦が、何百年も綿々と発展してきた西洋音楽に一つのピリオドを打たせた。そうして、音楽は作曲する時代から演奏する時代へと移っていく。

とは言え、今なお、作曲する人たちは数多くいる。優秀な人もいるだろう。しかし、今日には、ロマン派、古典派、印象派と言った大きな拠り所はない(もちろん、それらも当時は現代音楽だったのだが)。そして、西洋音楽の完成形であると思われるロマン派的手法は語りつくされてしまった。こうした行き詰った状況にあっては、モーツァルトやベートーヴェンは出現し得ない。

これがいまの一つの結論。たぶん、色々間違っているだろうけど、自分自身の中で今のところ納得しているものだ。

さて、西洋音楽は、ポピュラー音楽も含まれる。世の人はクラシックとポピュラー音楽の間に高い壁か、深い溝を作りたがるが、実は、ポピュラー音楽だって西洋音楽史の中の一部分に過ぎない。真剣にポピュラー音楽を聴いていないので、偉そうなことは言えないが、ポピュラー音楽は実は、ロマン派の流れを汲んでいる(以前の記事を
参照)。ロマン派までの手法を必死に否定し、聴衆から離れて行ったゲンダイ音楽よりもロマン派に従順だ。

ただ、ポピュラー音楽の音楽家とロマン派の作曲家に大きな違いがあるとすれば、「100年後には私の時代がくる」と言うマーラーの言葉に代表されるようにロマン派の作曲家たちが後世に名声を得ることに執着していたのに対して、ポピュラー音楽は、今現在に名声を求める傾向があると言うことだ。もちろん、ロマン派の作曲家とて、生前の成功も望んでいたには違いないが、それ以上に自分の寿命以上に生きる作品を意図的に作曲していた。だから、長く聴かれているのだ。

対して、ポピュラー音楽の音楽家は今現在、名声を得たいと願っている。10年後のことはそれほど興味がない。時流に合わせた曲を新たに作ればいいと思っている。と言うことで、平易で短く、馴染みやすい曲になった。世俗に応じて俗っぽくなった。音楽の商業化、大量消費が横行し、人々は次々に流行を追い求めて行く。

と言うと、悪口に聴こえるだろうが、なにも、クラシックと言う言葉でひとくくりにされている19世紀以前の西洋音楽(随分乱暴なくくりだが)だって、ロマン派のように偉ぶった高尚な音楽ばかりではない。

例えば、イギリスのルネサンス期に活躍したダウランドと言う作曲家は、言ってしまえば、今で言うところのシンガーソングライターだった。ギターの原型であると言われているリュートを演奏しながら歌える、数分程度の曲を作曲していた。その中から『流れよ、わが涙』のようなヒット作品が生まれ、欧州各地で歌われるようになった。いまのポップスシーンでも見られるような形ではないだろうか。欧州各地で歌われた、ってのも、カラオケみたいなものだ。

ルネサンス期の音楽と言う比較的マイナーな事例をあげずとも、バロック音楽だの、古典派音楽だのと言うのも、ずいぶんな音楽だった。J.S.バッハのゴルドベルク変奏曲が眠るための音楽であることは有名だが、その他の音楽だって、それほど高尚な目的で書かれているわけではない。例えば、テレマンで有名なターフェル・ムジークと言うのがある。これはテーブル・ミュージック、即ち、食卓の音楽と言う意味だ。言ってしまえば、食事のときに流しておくための音楽。食事中だから、リスナーはおしゃべりもするだろうし、聴いていないこともしばしば。ひどい話である。

ターフェル・ムジークは露骨だが、モーツァルトの作品だって、彼の演奏している昔の画を見ていれば、しばしばターフェル・ムジークのような扱いを受けていたのは明白である。

そして、これらの作品は、大量に作曲され、消費されていった。例えば、モーツァルトの作品数を見れば、そのことは明白だ。わずか、35年の生涯で600曲以上。いくら幼少期から活動したとはいえ、オペラのような大作を含めてこれほどの曲を書かなくてはならなかったとは、凄まじい。

このようにバロック、古典派の作曲家は、今のポピュラー音楽同様に、今現在の成功を求め、世俗に媚びて極めて俗っぽい。そして、リスナーにわかりやすいようにするためなのか、同じような曲が多い。だから、ポピュラー音楽を「世俗に媚びて俗っぽい」「音楽の商業化、大量消費が横行」と言って批判をすれば、すぐバロック、古典派にも同じ批判が当てはまってしまう。

で、さて、遠まわしになってしまったが、では、こういう音楽は数百年後に評価されているのだろうか。残念ながらそれは「否」である。確かに、モーツァルト、ハイドン、J.S.バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデルと言った一部の偉人は名前が残ってはいる。しかし、ほかはどうだろう?残っていると言っても、一部のマニアが喜んで聴いているだけだ。バロック&古典派の200年の歴史は、その後、たった半分の歴史しかないロマン派音楽よりもずっと印象は薄い。

そう考えれば、ポピュラー音楽もまた、同じことになるのかもしれない。結局は、ドホナーニが言うように「本当に強力な持続性を持つと思われるものはとても限られていた」と言うことになるんだと思う。

拍手[0回]


ケルテス&ウィーン・フィルの『魔笛』がDVDでリリースされるらしい。1964年のザルツブルク音楽祭ライヴ。当たり前のようにモノクロ&モノラル。ケルテスとウィーン・フィル(とその変形楽団)のモーツァルトは良い演奏が多いので、期待していいのだが、モノラルねぇ。DVDじゃなくていいからステレオ音源で発売して欲しかった。つっても、1964年では、ライヴ録音のステレオはちょっと厳しいか。出るだけでもありがたがるべきなのか。そう言えば、ケルテスの動画って見たことないなぁ。YouTube観てみるか。

それはともかく。この映像、ルチア・ポップが出ているんだよね。第1の少女で。端役過ぎるだろ~。同年録音のクレンペラーの演奏では夜の女王歌っているのに。ま、そんときはクレンペラーに「お譲ちゃん、夜の女王歌うには若すぎるんじゃないかね?」と言われたらしいけど(クレンペラーらしいな)。因みに、ポップのオペラ歌手デビューは確か、1963年。だから、この2つの『魔笛』は共にデビュー翌年の作品だ。あたり前だけど、残っている記録では最も古いもの。興味はあるなぁ。

拍手[0回]


フランチェスカッティのメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いている。ホント、この演奏の美しさには酔わされる。天衣無縫に駆け巡る歌心溢れる音色…ただ、ひたすら美しさを求め続けるならば、これほどの演奏はないだろう。少なくても、おいらが聴いた演奏の中では最強の美しさだ。

では、さて、今の演奏家はいかほどのものか。美しいと言えば、ルノー・カプソンだ。うん。持ってない。欲しいんだよね…。じゃ、買うか。と言いたいところなんだけど、ここ2週間ほどちっともCDを買っていない。HMVで入手困難をダメもとで注文しただけ。たぶん、これはそうそう送られてこない。てなわけで、この勢いを続けていきたいと思っているところ。だから、カプソンのメンデルスゾーンもしばらく買わない。たぶん、きっと、いや、分かんないけど…。

唐突だけど、話変わって、さっき、プーランクの田園のコンセールを聴いていたんだけど、これ、やっぱピアノでやるとなんかおかしいよなぁ。最初に、ロジェ&デュトワを聴いて、次にピノック&小澤を聴いて、最後にちらっと、ギレリス&コンドラシンを聴いた。ギレリスだけピアノ。なんか、こう、せっかくの新古典なのに…残念、って感じだ。まぁ、ロシア・コンビのプーランクなんて本来の香りを楽しむための演奏じゃないことは確かかもしれないけど。やっぱ、この曲はチェンバロだよなぁ。

で、ここで思い出したのが、のだめで千秋真一が弾き振りしたバッハのコンチェルト。アニメで観たんだけど、やっぱ、これもピアノで弾く曲じゃない。千秋はホールが大きいからピアノを使ったと説明しているんだけど、違和感あったなぁ。最近、古典派マイブームでコンチェルト・ケルンとか、カペラ・コロニエンシスとか、その辺のオリジナル楽器の楽団の演奏を聴きすぎたせいだろうか…。それほど、原典にこだわったリスナーでいるつもりはないんだけど…。

ちなみに、モーツァルトのピアノ曲は普通のピアノで聴いても何の違和感もない。変な話だ。古典派は、いいけど、バロックはダメってことかな?

拍手[0回]

忍者ブログ [PR]
ブログランキング・にほんブログ村へ
Powered by 忍者ブログ  Design by © まめの
Copyright © [ 音楽雑記&四方山話 ] All Rights Reserved.