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■ 大晦日

年末…つか、大晦日。今年はどんな年だったろう?

はじめてヨーロッパに行った。現地で音楽を聴いた。いつも聴いている音楽を育んでいる空気に触れることができた。これはとても大きな出来事だった。ベトナムにも行った。こっちもはじめての日本以外のアジア。凄い活気に呑みこまれた。

買ったCDは古楽が中心だったかな。手薄だったってのもあるけど、ロマン派以降の狭い檻の中から出て、無限の宇宙に彷徨い始めたような感覚がした。知らないもの、素晴らしいものが、時の流れに埋もれて忘れ去られようとしている。そう言うことに「もったいない」と思うようになった。途方もない、茫漠とした世界かもしれないが、そういうものへの探究心が、どんどん心を満たしていく。音楽史的には後ろを振り返っているんだけど、古楽を聴くと言うことは新たな発見を続けること。ポジティブに進んでいかないと楽しめない。古楽と言う言葉から想像出来る印象とは真反対のものだったことに気付かされた。このことはアーノンクールにはっきりと気付かされた。

アーノンクールと言えば、最後の来日公演。今年は、結構色んなコンサートに出かけたけど、やっぱ、今振り返ってみると、アーノンクールのインパクトは強烈だった。サイン会で、じろりと一瞥された、あの眼光の鋭さは忘れることはないだろう。

石丸電気のクラシック館の閉店とHMV渋谷の閉店は一つの時代の終焉を感じた。来年はまた新たな展開があるわけだけれども、CD販売は若者が中心(クラシックはそうじゃないけど)で、それがネットに移って行ったということ。多分、これは他のジャンルでも言えるんだろう。例えば、既存のマスメディアを支えているのは、ある程度の年齢以上の人で、若い人たちは、テレビ観ない、雑誌読まない、新聞読まない、と言う方向に流れていくんだろう。それを一生懸命、批判している既存メディアの姿が、閉店していくCDショップの姿に重なる。でも、全盛を誇り始めているネット社会もいつかは何かに取って代わられる。

おっと、話がずれた。あとはCDのデータ化。結局年内に終わらず。つか、全然なんだけど、ね。これのお陰で、CDから音楽を聴くことが少なくなった。これは大きな変化。

音楽ネタとしてはこんなところ。その他だと…国内の旅先で一番印象に残ったのは、青森と言う意外性。真冬の釧路とか、帯広にも行っているのに。何なんだろうなぁ~。

さて、そんな感じで、今年ももうおしまい。来年もよろしく&良いお年を!

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え~、お蔭様を持ちまして、前回の記事が999回目…で、今回の記事で1,000回目の大台と言うことに。つうことで、祝う!ここまで6年半ほどで到達。勢いのあるときは、1ヶ月間ほぼ毎日、やる気がないときは1ヶ月に1回という至って、気分次第な運営を進めてきた。それでも何とか、1,000回と言う大台に達成したのも、皆々様のお陰。今後ともよろしくお願い申し上げ。気分次第、至って自己満足的な運営方針は一切変えず、淡々と進めていこう、とまったくやる気のない、決意を固めてグダグダダラダラ次に進んでいく。

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ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン…今年で5回目だっけ?6回目だっけ?来年もあるんだが、集客力は衰えていないんだろか?最初は目新しさで人を集めたと思うんだが、しっかりと、「クラシック=お洒落」から脱却した客を確保できたんだろうか。クラシックコンサートは敷居が高いとか低いとか、おいらは全く感じたことがないんだが、LFJはそれを解消できたんだろうか。たぶん、敷居の高さを感じている人ってのは、クラシック=高尚だと思っていて、故に、「お洒落」になったり、「お高くとまっていて嫌い」になるんだが、それを解消できたとしたらルネ・マルタンは偉大だ。

さて、そんなLFJの2011年は19世紀のロマン派。クラシックの王道。つうか、一般の人のクラシック音楽のイメージはほぼこの時代の作曲家によって作られている。クルクル髪の毛の時代の作曲家の曲なんて、ホントは一部の作曲家しか聴かれていない。だから、LFJでロマン派って聞いた時は、「ついに!」って感じがした。

日本でのプログラム発表はまだ先だが、ナントの方はすでに発表されている。ポスターには、マーラー、リスト、R.シュトラウス、ブラームス、シェーンベルクが描かれていて、真中に「Les Titans」(巨人たち)と書かれている。今までに比べると渋め。正直、「は?リストが何で入っているの?」と思う。あまりにも違和感。同列にしていい作曲家じゃないと思う。違う世界の人じゃないか?だったら、シューマンとか、メンデルスゾーンとか、少し毛色は違うけど、ドイツ・ロマン派を入れるべきじゃないだろか?シェーンベルクは何となく、並べたい人だ。

注目のコンサートは、コルボのドイツ・レクイエム。これは想像通り。この時代、宗教曲はちょい手薄なので、簡単に予想が付いた。その外では、ネーメ・ヤルヴィがマーラー、ワーグナー、ブルックナーを振るが、この人はLFJには来ないと思う。LFJは都響がマーラーをカバーすると予想。インバルは出ないと思うが…出たら、争奪戦必須。室内楽では、ルノー・カピュソン&アンゲリッシュが目玉か。ブラームスなどを演奏する。過去に実績はあったと思うが、LFJに参加するとしたらありがたい。ミシェル・ベロフなんて大物も出ているが、LFJまでは来ないだろう。その他、ルガンスキー、ベレゾフスキー、ケフェレックなどピアノ陣は相変わらず充実。

しかし、ロマン派なら迫力満点のオーケストラを中心に持ってきてもいいんじゃないかと思うんだが…。マルタンの好みだろうか、景気の影響だろうか。

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クラシックCD、特にロマン派以降の市場ってもう限界なんじゃないだろか。有名曲は、もう何十種類も録音されて発売されている。ベートーヴェンの交響曲なんて、今更、膨大な費用をかけて新たな録音をする必要があるのか。優秀な指揮者がいるとしても、既に消費者は多種多様な選択肢を持っているのだ。

と言うことで、最近、めっきり、スタジオ録音の新譜って少なくなった。出てくるのは、新旧様々なライブ音源が圧倒的に多い。そう言う状況が良いのか、悪いのかは判らないけれども、若手の指揮者にとっては決して喜ばしい事じゃないだろうな。世界に向けて自分を発信する手段を一つ失うのだから。

しかし、そんな状況でありながら、今の若手指揮者には有望な人が多い。ドゥダメル、ユロフスキなんてのはもう随分とメジャー路線に出てきているが、その外にも、ペトレンコだの、ネルソンスだの、ソヒエフだのといった30代前半までの有望株が着実にワールドクラスの指揮者に登り詰めつつある。

さて、そんな中、ターリヒ、アンチェル、クーベリック、ノイマン、コシュラー、ビエロフラーヴェクと名匠を輩出してきたチェコはどんななんだろうか…と言うのは、前から気になっていた。そんな時に出てきたのが、トマーシュ・ネトピル。既に、2006年のモーツァルト・イヤーにザルツブルク音楽祭で歌劇『ルーチョ・シッラ』を振っているほか、SupraphonからいくつかCDも出て来ている。1977年の生まれだから、まだ33歳くらい。チェコ指揮界有望株の筆頭である。

と思っていたら、もう一人、メキメキと名をあげてきた指揮者がいた。ヤクブ・フルシャ。まだ、29歳。最近、東京都交響楽団に役職を得たので、日本での知名度も上がってきそうだ。折角なので、都響の演奏会に一度足を運んでみないといけないな~。

って、それだけじゃないんである。なんと、今年のプラハの春音楽祭でオープニング・コンサートを振ってしまった。プラハの春音楽祭のオープニングと言えば、『わが祖国』。この音楽祭、いや、チェコにとって最も大切な曲である。クーベリックがチェコに復帰したのも、アンチェルがカナダに亡命する直前に振ったのも、このオープニング・コンサートでの『わが祖国』である。29歳にはとんだ重責である。ところが、この重責を確りこなしてしまうから、非凡ってやつなんだろう。演奏はライヴ録音が最近発売されたので、気軽に聴くことができる。

と言っても、録音されたのはスメタナ・ホールでのオープニング・コンサートではなく、続けて演奏されたルドルフィヌムでのもの。オーケストラは、チェコ・フィルではなくて、プラハ・フィル。ちなみに、チェコ・フィルのほとんどの録音はルドルフィヌムで演奏したものである。

それにしても、なんと、瑞々しく、歌心が溢れている演奏だろう。オーケストラも豊かによく鳴っている。迫力も十分だ。思い切って変なことをしているわけではなく、この音楽祭の伝統に敬意を持ちつつ、若い感性を存分に発揮した演奏と言えるんだろな。

ネトピルもいるし、チェコ指揮界の将来は明るい。てか、ビエロフラーヴェクまでの間の世代はどこ行っちゃったんだ?

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1年前のヴァイオリン教室の発表会は、コレルリのラ・フォリア変奏曲だった。つっても、難しいところをすっ飛ばした簡易版。この曲の存在はこの時はじめて知ったんだけれども、これが良い曲なんだなぁ。仄暗いメロディがゆったりと舞うように始まるんだけど、徐々に狂気を含んでくる。おいらたちの演奏した簡易版は、狂気は炸裂しなかったんだが、原曲は結構吹っ飛んでいる。まぁ、おいらの手にかかれば、簡易版でもある意味吹っ飛んでいるんだが…(滝汗)。他の人のお陰で、狂気にまではならなかった。

さて、ラ・フォリア…先から書いているまんま「狂気」とか「常軌を逸した」と言う意味である。イベリア半島に起源を持つ舞曲なんだが、このメロディにインスピレーションを得て、バロックの作曲家たちが様々なラ・フォリア変奏曲を書いた。その中で、最も有名なのが、コレルリ…かと思っていたけど、実はヴィヴァルディかも。

で、このヴィヴァルディのラ・フォリア(正確にはソナタ ニ短調 作品1-12 RV.63『ラ・フォリア』)最近はじめて聴いたんだが、これ、マジ、狂気。さすが、ヴィヴァルディ、バロック最強の暴走作曲家。イタリアの古楽演奏団体に暴走楽団が、多いからアグレッシブな録音が多くなっちゃって、そう言うイメージがつきやすいってのもあるんだが、アグレッシブな演奏でも十分耐えうる曲を書いているんだから、あながち間違ってもいないだろう。当時から激しい曲へのニーズもあっただろうし。むしろ、当時の人が優美な曲ばかり聴いていたと言う方が後世の人の作り上げた幻想なんじゃないだろか。

ちなみに、おいらが最初に買ったのは、イル・ジャルディーノ・アルモニコ。暴走確定、なんだが、おいらは、この楽団はじめて買ったのだ。古楽好きと言うには、遅ればせ…過ぎる。で、これが、噂通りの暴走演奏だった。最初は、コレルリ同様、ゆったりと始まる。そう、あの仄暗いメロディによって憂鬱な雰囲気が空間を支配する。やがて、狂気を含んでいき、徐々に快走を始める。早い、早い、早い…何と言う心地よさ。そうして、危うげでエキサイティングな曲へと変貌する。しかし、仄暗い雰囲気は失われることはない。その後、曲は落ち着くこともあるが、ラストに衝撃が待っている。いきなり弦楽器が打楽器と化す、と言っていいかもしれない。そして、一気呵成にすごい速さのパッセージで突っ走って曲は閉じる。しかし、最後まで、仄暗いメロディアスな雰囲気は失わない。すげぇ…快感だ。

他に、オノフリ盤とサヴァール盤も聴いてみたが、イル・ジャルディーノ・アルモニコ盤が一番アグレッシブ。サヴァール盤はまだそこまで聴き込んでいないけど、これも名盤。オノフリ盤は、ややおとなしい。元イル・ジャルディーノ・アルモニコのコンマスなんだけど…な。

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■ TV離れ

テレビ難民である。いや、正確にはテレビ難民予備軍である。で、テレビ難民って何かって言うと、来年の7月のアナログ放送終了に伴いテレビが見れなくなってしまう人たちのことだそうだ。要するに新しいTVが買えない人、地デジ受信用のチューナーが買えない人、と言うことになる。

で、おいらもそのテレビ難民になりそうなんだが、別に「難民」なんて、可哀そうな状況ではない。だって、要らないもん、テレビ。このブログ読んでいればお気づきだと思うけど、CD数か月買わなければ、TVの1台や2台買えるんである。でもさ、CD買うのを我慢してまで必要なものじゃないんだ。1ヶ月や2ヶ月全くTVを見ない時もあるくらいで、そんなもののために万を超えるお金を使いたくない。だいたい、TVなんて見ている時間ないんだよね。忙しいとか言うんじゃなくて、聴かなくちゃいけないCDやDVDがたくさんあるし、ブログ書いている時間だってあるし、X-BOXでゲームをやっている時間もある。ネットで情報収集している時間もある。実は、ヴァイオリンの練習もしなくちゃいけない。優先順位としては、TVはそれより断然低い。唯一観るのが、サッカーの代表戦。あとはまるきり興味がない。要するに、要らない。

こうしたTV離れって言うのが、なぜか、問題になっているらしい。ネットで情報収集して、TVや新聞を利用しない人たちが若者の間で増えていくことなんて、不可抗力じゃないだろか?新聞離れもTV離れと一緒にして、「活字離れへの批難」と言う正義を振り回している文章を読んだことがあるけど、自分に限って言えば、TV世代より文章を読む機会も、文章を書く機会も圧倒的に多いと思っている。ネットは基本、文字情報だし、こうしてブログで原稿用紙何枚分もの文章を1週間のうちに何回も書いている。TV漬けの人が、こんなにも文章を書いているだろうか?

おいらはそもそもTVに対して、否定的な意見の持ち主なんだが、その大きな理由は、「虚しい情報の垂れ流し」と言うところにある。TVで得た情報って、すぐに忘れてしまう。身にならない。何でか。努力をして得た情報ではないからである。また、自分が欲しい情報じゃないからである。能動的な情報収集ではなく、受動的な情報収集なのだ。そんなもの覚えているわけないんである。虚しい情報以外の何物でもない。そんな情報が得られなくなったからと言って、何が問題なんだろうか?

もちろん、ネットでの情報収集にも問題はある。偏っていると言えば、一つ一つの情報は相当偏っているし、間違っているものもだいぶ多い。ただ、そうと判っているからこそ、すべての情報をなんのフィルターも通さないで信じることはないんである(いや、そう言う人もいるかもしれない。それはそれで危険なんだが)。それに対して、TVはどうだろう?ネットほどではないにせよ、随分と、でたらめな情報や明らかな情報発信者の意図を感じることがある。ところが、TVの盲信者と言うのは、疑うことを知らない。「TVで言っていたから真実だ」「TVで言っていたからそれこそ、世の普通だ」と思いこんでしまう。もの凄い人になると目の前にある真実ですら信じようとせず、「TVで言っていたのと違う。これは間違った現実だ」などと思うようになる。何と言っていいのやら…冷静に考えれば、呆れるばかりなんだが…。

一億総白痴のもととは、TVが出始めた頃、大宅壮一の放った言葉だと言うが、TV離れを問題にするよりも、これを機会に、先人の警鐘を考えてみた方が良いんじゃないだろうか。

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クラヲタ、いや、音楽好きの殆どはCDリスナーだと思う。演奏会なんて、そうしょっちゅう行けるものじゃないけど、音楽を1週間も2週間も聴かないで大丈夫って言ったら「音楽好きなの?それ?」って思うでしょう?要するにCDリスナーにならざるを得ない。そうでないのは、自分が満足に楽器を演奏できるか、自由な時間と有り余るお金を持っている場合のみである。ただ、前者の場合でも、合奏の妙を楽しむには1人では無理なので、頻繁に仲間と手合わせができる状況にある人じゃないと面白くないんじゃないかな?割と楽器の達者な人はCDを買わないと言う例が多いみたいだけど…ね。とは言え、見聞を広めるのは、CDが一番てっとり早く、合理的。好奇心旺盛な人には、楽器をやっていようがどうしようが、必須アイテムだと思う。

まぁ、そんなわけでおいらも思い切りCDリスナーなのだが、今年は結構、演奏会に足を向けた。忘れちゃう…ってことは、このブログを書いている以上あまりないんだろうけど、とりあえず、12月だし、まとめておこう。

2月7日
・ウィーン王宮礼拝堂ミサ/ウィーン宮廷楽団
 モーツァルト:クレド・ミサ
・ウィーン国立歌劇場/ペーター・シュナイダー指揮
 R.シュトラウス:歌劇『ばらの騎士』

2月9日
・マゼール&ウィーン・フィル/ムジークフェライン
 ベートーヴェン:交響曲第6番、ほか

2月10日
・ドゥネーヴ&ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管/コンツェルトハウス
 プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(ハーン)
 ドヴォルザーク:交響曲第7番、ほか

2月11日
・マゼール&ウィーン・フィル/ムジークフェライン
 ブルックナー:交響曲第3番、ほか

2月12日
・フェドセーエフ&ウィーン響/ムジークフェライン
 シマノフスキ:交響曲第3番『夜の歌』
 マーラー:交響曲第5番

3月31日
・インバル&都響/サントリー・ホール
 マーラー:交響曲第3番

5月2日
・コルボ&シンフォニア・ヴァルソヴィア/LFJ
 メンデルスゾーン:オラトリオ『聖パウロ』

5月3日
・コルボ&シンフォニア・ヴァルソヴィア/LFJ
 モーツァルト:レクイエム
・モディリアーニQ、竹澤恭子、ほか/LFJ
 メンデルスゾーン:弦楽八重奏曲、ほか

6月2日
・サロネン&フィルハーモニア管/サントリー・ホール
 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(ハーン)
 シベリウス:交響曲第2番

6月18日
・インバル&都響/ミューザ川崎
 マーラー:交響曲第2番

8月22日
・フライブルク大聖堂付属少年合唱団/東京カテドラル

9月3日
・花井哲郎指揮コントラポント/東京カテドラル
 ルイ14世のミサ(オール・ドラランド・プログラム)

11月2日
・アーノンクール&コンツェントゥス・ムジクム/タケミツメモリアル
 モーツァルト:セレナーデ第9番『ポスト・ホルン』、交響曲第35番

11月26日
・ゲルギエフ&ロンドン交響楽団
 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(諏訪内晶子)
 マーラー:交響曲第1番

12月1日
・アルゲリッチ・セレブレーション
 シューマン&ラヴェル:ピアノ協奏曲

以上17公演か…結構行ったなぁ。つっても、ウィーンとLFJで数稼いでいる感じはするけど。まぁ、充実していたってことで、よいことだ。

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ショパン・イヤーだった今年、とりあえず、アニバーサリー的な話題には触れずじっとしていた。マーラーとシューマンについては少し触れたかもだけど、ショパンで盛り上がっている部分には近寄らないようにしていた。何故って?あんま好みではないから。

さて、12月に入ったことだし、もう来年の話をしてもいいだろう。と言うことで、2011年にアニバーサリーな音楽家を調べてみた。まずは、没後100年と言うことでマーラー、あとスヴェンセン。スヴェンセン、盛り上げていこう!(誰が?)生誕200年ではリスト…あ、これはおいら的には触れたくない作曲家だった…。生誕150年にアレンスキ、生誕300年にボイス、生誕450年にジェズアルド、生誕100年にロータ、没後50年にグレインジャー。あー、こりゃ、間違いなくマーラー・イヤーだな。ほぼ一色(あえて、リストはいなかったことにしておく)。

気になるのはジェズアルド。妻殺しで有名な作曲家。また半音階技法で作曲をしたことでも知られており、その音楽は何とも不思議な響きを持っている。ルネサンス期の作曲家ではあるが、この技法を用いる作曲家が次に現れるのは、19世紀も終わりまで待たなければいけない。

とはいっても、ジェズアルドで盛り上がりたくない。何となく。マーラーも盛り上がる感じの作曲家じゃないけど、ジェズアルドはもっと盛り上がらない。やっぱ、スヴェンセンで行きたい(笑)。それか、ボイスとか…。盛り上がるだけのネタがないか…。

って、以上はおいらの調べの付いた分だけ。案外調べるの大変なので、漏れもあると思う。他にもこんな人いるよー、ってのがあれば教えてほしい。

 

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The Celtic Violと言うCDを買った。Celtic…おお!セルティック!サッカーチームだね?って、そうなんである。いや、サッカー関係ないんだが、意味は一緒。セルティックってケルト族って意味なんである。って、ことに数か月前に気付いて喜んでいた。気付くの遅いよね…。

つうわけで、The Celtic Viol、「ケルトのヴィオール音楽集」とでも訳しておこうか。ヴィオールの名手、ジョルディ・サヴァールとバロック・ハープの名手でサヴァールの盟友、アンドリュー・ローレンス・キングが組んだ1枚。サヴァールのサヴァールによるサヴァールのためのレーベル、ALIA VOXからのリリース。素敵な企画と高音質、あとやたらと凝ったジャケットが魅力的なレーベルだ。逆にそのせいで、値段がやたら高いのが難点。こだわりの逸品と言うやつだが、SACDプレイヤーを持っていないおいらにはオーバースペック。
 
さて、ケルト、と言うとちょっと前に、ポップなジャンルでも世界的にブームになっていたと思う。多少は、日本にも伝播していたのかな?このCDもその流れを汲んでい…ない。もちろん、近しい響きはあるんだが、もっと、原始的な響きを持つ。なんつっても、ヴィオールだ。そっと添えられるハープの伴奏も素朴な味わいを増してくれる。そんな中に、物悲しい調べやノスタルジックな響きが加わると、なんと美しいことか。ロマン派の雄弁なオーケストラ曲に慣れた耳には逆に新鮮に響く。シンプルなのに、素敵な音楽。オーケストラが豪奢な都会の音楽だとすれば、この音楽は素朴な田舎の音楽。この味わいは、ロマン派には失われたものだろうなぁ。雨の日の午後に読書をしながら聴きたい音楽だ。

それにしても、ALIA VOXはホントに面白い企画を次から次へと繰り出してくる。古楽好きには堪らないだろう。こういうことは大手のレーベルではできないんだろうなぁ。しかも、演奏が良い。サヴァールの演奏は古楽の楽しさを改めて感じさせてくれる。素晴らしいレーベルだ。

そうそう、このCeltic Viol、人気があったのか、第2弾も発売された。ジャケットのサヴァールの写真のポーズがほぼ一緒と言うのは、何なのか。なんであれ、近いうちにゲットしたい。

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ゲーベル&ムジカ・アンティクヮ・ケルンがアルヒーフに録音した「J.S.バッハ以前のドイツ・バロックの室内音楽」と言う楽しそうな3枚組のCDがタワーレコードの尽力で安く入手できるようになった。

この時代のドイツ・バロックで一番有名な曲と言えば、やっぱパッヘルベルのカノンだろう。もちろん、このCDにもカノンは収められている。パッヘルベルは一発屋と思われがちであるが、当時の音楽界では巨匠として知られていたらしい。なので、このCDにもパッヘルベルの他の曲が収められているが、まず聴いてしまうのは、やっぱりカノン。

カノンと言えば、バロックのアイドル的名曲だからにして、ありとあらゆるジャンルの音楽に引用されまくっているんだが、いずれにせよ、癒し系的な扱いをされている。そうした一般的なイメージでは、マリナー&アカデミー室内管弦楽団の演奏が、ぴったりだろう(参考:Youtube)。対して、ここに聴くゲーベル盤カノンは一筋縄にはいかない。軽く、駆け抜けていく。ヴァイオリンの響きも鋭い。切れ味よくサクサクサクサクサクと進んでいく。ロマン派的な響きで、豊かにゆったり奏でられるカノンとは一線を画す(参考:Youtube)。

オリジナル楽器とモダン楽器の違いが誰でも判る好例だが、しかし、モダン楽器に慣らされている耳にはゲーベルの演奏は「こんなカノン、カノンじゃねー!!」と拒否反応を示したくなることだろう。ところが、真実は、少なくてもマリナーの演奏のようなカノンはパッヘルベルは演奏していないはず、なのである。ゲーベルのようなカノンを演奏していたかどうかは判らないけれども、パッヘルベルの想定した楽器、奏法はゲーベルの方が、マリナーよりもずっと近いはずである。要するにゲーベルの演奏の方がパッヘルベルが演奏していた可能性としてはある、と言うことだ。アーノンクールも言っているように、作曲家の意図した楽器、奏法で演奏することが、その曲の本来の姿、本来の魅力のはず、と言うことを鑑みれば、ゲーベルの方が本来のカノンの魅力を引き出した演奏、と言うことになる。

じゃぁ、オリジナル楽器の演奏家は楽譜に忠実なのかと言うと、これが全く違うのだ。むしろ、楽譜に忠実なのはモダン楽器の演奏の方。バロックの作曲家の楽譜は、演奏者の判断に任せるところが大きい。だから、楽譜に忠実に演奏することが正解にはならない、って解釈だ(おいらの理解ではそういうこと)。

そもそも、今の記譜法が確立したのは、1600年前後、要するにバロックの始まる前後だと言われている。それまでは、ネウマ譜のような楽譜はあるんだけれども、今の楽譜みたいに細かいことは書きこまれていなかった。下手すれば、音の長さが書いていなかったり、音の高さもあまり明確な決まりはなかった。中世以前になると、基本的にメロディは伝承で歌詞しかない曲も随分とある。こういう時代の音楽では、演奏するものの裁量に頼る部分が大きい。

で、バロックはそこから抜け出したばかりの時期であることを考えれば、それほど、楽譜にがんじがらめの音楽ではなかったはずである。これが、古典派を経てロマン派に入ると、より複雑化した音楽様式が確立されていき、楽譜はより大きな力を持つようになる。こうなると一人の人間が作曲家と演奏家を兼任するのが難しくなり、それぞれが専門家となる。20世紀に入ると、作曲家と演奏家の分離はよりはっきりしたものになっていく。そうした時代においては、やはり、ある程度楽譜に忠実に演奏することが重要になってくる。こうしたロマン派以降の常識でバロックを演奏していては、バロック音楽本来の魅力を表現することはできない。

ってのが、オリジナル楽器奏者の考え方であり、魅力である、とおいらは勝手に解釈している。まぁ、おいらみたいな素人でも理解できるように単純化しているので、有識者に言わせれば、間違っているところも多々あるだろうけど。

さて、それでは、マリナーとゲーベルどっちが良いのか。そんなのお好み次第である。歴史的に正しいとか、間違っているとか、どーでもいいんである(今までの話は何だったのだ!)。心に響いたもの勝ち。ただ、ゲーベルを持ち上げるわけではないけれども、今まで聴いてきたカノンがマリナー的だからマリナーの方がいいと言う結論はまったく面白くない。貪欲に新しいものを求めていく好奇心があれば、音楽の幅は広がるし、クラシックと言うジャンルを楽しむには、それなりの好奇心がないといけない。何と言っても、ン百年の歴史があって、そこには地域、時代によって多種多様な音楽があるのだから、保守的にひとところに留まっていては、存分に楽しめないのだ。そして、それが故に楽しくもあるのだが…CDの増加は止まらない…。


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